Vガンダム
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「いまさら、Vガンダム」
 Vガンダムが放送されたのは、私が高校一年の時だった。バスケばかりの中学時代。ぽっかりと空いた二学期の空白に、ゲームクリエーターとしての自分を断念し、自分の創作への意欲を満たすには、シナリオライターにでもなるしかないのかと思いつつ、進学校に受かった頃である。
 なんだかんだいってもゲームクリエーターになりたかった自分は、自分にプログラミングの才能が無く、またFF式のストーリーRPGを非難しているにも関わらず、自分の思いつくシナリオがシステムを成り立たせないことに気付いて愕然としていた頃である。そしてシステムの為にシナリオを変えることが出来ず、自分のゲームに対するポリシー(システム至上主義)に反するゲーム作りをするぐらいなら、ゲームクリエーターは諦めようと思った頃である。
 元来物を書くのが得意だったから、たくさんのゲームのシナリオ案を殺さないためには、シナリオライターにでもなるしかないのかと考えたが、シナリオライターなんて全く未知の職業である。小説、という言葉も頭に浮かんだが、それももっと漠然としている。書き始めた作品も中途半端で、全てが曖昧なままでの高校生活の始まりだった。

 中学の友人を家に呼んでゲームをしていた。そして別の部屋のテレビで、Vガンダムの第一回が放映され始めた。前々から、テレビの告知などで放送されるのは知っていた。当時の私は、F91は前売り券を買って公開二日目の日曜に有楽町まで見に行ったりしていて、ガンダムという作品が好きではあったが、熱心なファンというわけではなかった。SDが嫌いだっので、バンダイの量産するゲームには辟易していて、ガンプラも段段億劫になって買わなくなっていったので、まさに昔好きだったと言うだけだった。Vガンダムも、へえ、やるんだ、ぐらいで見ようなんて思わなかった。
 
 向かい合った部屋の、端と端からテレビを眺めていた私は、しかし、段々とVの流れるテレビへと引き寄せられていった。友人をほっぽりだし、テレビにかぶりついて見ていた。あの評判の悪い第一話をである。
 ただ、実際問題として、その後の2〜4話が良くなかっただけで、第一話の出来自体は秀逸だったと思う。主役マシンの登場、今後に連なる要素を散りばめて視聴者の興味を引く…まさに演出の極みであった。

 それから私は録画して毎週見ることになった。録画したら必ずその日のうちに見て、一話たりとも溜めたことは無かった。そして高校の近くの漫画屋で、富野自身が書いた小説があるのを知ると、昼飯代を削って2ヶ月程でスニーカーの全巻を集めた。他社の絶版などはその後長い年月を得て収集していくことになる。
 その小説がまた秀逸だった。テレビよりも面白い。テレビでは注文があって削られた場面・設定と言うものが、断然面白い。そして、このようなやり方…テレビ・ゲームという媒体で自分の作品が歪められてもこのように発表できる…ということに、ともかく自分の中の作品に、息吹を与えて具現化しようと思うきっかけにもなった。

 そしてそのVガンダムである。ロボットものでありながら、テーマが「母と子」である。男性官僚社会の象徴とも言える地球連邦。それと敵対するのがマリア主義である。女王を擁き、母性をモットーとするザンスカール帝国の、しかし血みどろの戦いである。
 その戦いの中で、男たちは組織に縛られ、自らの欲の中に取り込まれていくのに対し、多くの女性たちは自分の選んだ「女」としての有り様に殉じていくのである。

 ウッソの母、ミューラは息子にスパルタ教育を施すために強く当たる。甘えたい息子にはつらいかもしれないが、そういう自分の期待を全て子供に押し付ける母親は間違いなくいる。
 シャクティの母、マリアは組織のクグツとしてしか生きれない自分の身を呪いながらも、敵のエースパイロットであるウッソがシャクティの友達だと言う理由だけで助けようとする。母としてせめてもの罪滅ぼしのつもりで。
 そのシャクティは、ひたすら戦場を憎み、エンジェル・ハイロウの中にもただ戦争を止めたいという望みを持って自ら入るのである。殺し合いを憎む、一人の少女として。
 ジュンコ・ジェンコは、女を捨てて戦場に身を預けた女性だった。しかし、ウッソの活躍にひたすら焦る。マーベットが見守る立場に徹したのに対し、自分の存在価値をただ戦果にしか見出せない不器用な人であった。
 他のシュラク隊・・・ペギー、マルチナ、ケイトはウッソに希望を託して散っていった。亡き弟の面影をウッソに見たマルチナは、この新しい弟は絶対に守ると戦場に飛び出していって戦死した。
 ファラ・グリフォンは、酒場でスージーに施すと言う母性と、ギロチンを振りかざす暴力とを内に秘めて、宇宙放流の果てに狂気に飲みこまれていった。
 レンダは、バイク乗りのドゥカー・イクの夢にただただ身を託した。男の夢に身を預けて一緒に死んでいった。

 そして、この物語の二つの軸が、マーベット・フィンガーハットとカテジナ・ルース、この二人の女性の生き方である。Vガンダムは「母」と言う言葉の元で相反する生き方をした二人の物語であると言えよう。
 母となった者と、母を捨てた者の物語である。
 マーベットは、Vガンダムのテストパイロットでありながらウッソにその座を奪われる。その喪失感の中で、恋人であるオリファーにも当り散らしていた。しかし、やがてウッソを見守る「母性」としての立場を受け入れ、オリファーの戦死後も子供たちの母として常に見守り続けていく。殺し合いの戦場の中で、しかし母として戦士となったウッソを見守り、励まし、時には助けることに自分の居場所を見出していった。そしてマーベットは、その中に生命を授かるのである。
 カテジナは、ウッソが自らに求める幻影に苦しんでリガ・ミリティアを後にした。うわべだけの家族、ウッソが押しつける聖少女の虚像、戦争にしか頭に無いリガ・ミリティア…そんな中で苦しんでいたカテジナはクロノクルについていく。最終回で彼女が叫んだ、「クロノクルは私に優しかったんだっっっっ!」という、『ただそれだけの理由』で、あれほど憎んだ戦場に身を投じ、多くの命を奪っていった。
 命を守り育む者と、自らの存在意義を守るために命を奪う者の物語。
 カテジナは、ただ優しく自分を扱ってくれたクロノクルに自分の理想を全て押しつけた。それはウッソが自分に女性としての憧れ全てを押し付けた行為と同じであることにも気付かずに。しかし、ウッソからは逃げ出した自分とは違い、クロノクルはそれに応えようとした。カテジナの押し付ける理想が、自分の強い出世欲とも重なったからだ。
 しかし、クロノクルにその器は無かった。結局は女王の弟ということで高い地位を与えられたに過ぎなかった。しかし、一度家庭生活で失敗しているカテジナは、今回の失敗…新しい居場所にリガ・ミリティアではなく、ザンスカールを選んだこと…を認めたくなかった。認められなかった。クロノクルと共に従軍し、彼の指揮する作戦を成功させるため、ザンスカールが勝利するために自ら進んで戦場に出ていく。女を優しく扱い、連戦連勝で指揮官として上り詰めていく将軍とのロマンス…それがカテジナの甘い夢だったに相違ない。しかし、クロノクルの器の無さに、彼の戦果の為に戦場で虐殺の限りを尽くすカテジナは、まさに女としての性に狂ったのである。
 ザンスカールの敗北することは、自分の女として選んだ生き方が敗北することであった。そして当初の目的…ただ自らの心の安らぎを与えてくれる場所を探すと言うことも忘れて、戦場の狂気の中に取り込まれていった。クロノクルを、ザンスカールを次々と打ち破っていくウッソは、自分の理想の誤りを宣告する、余りにも残酷な存在であった。
 そしてラストシーンは、お腹を膨らませたマーベットと、さまよいながら故郷に戻ろうとするカテジナで終わる。

 戦士として失敗したが、母として生きる道を見つけたマーベット。夢見た理想が幻影であることを認められなかったカテジナ。その余りにも壮絶で凄惨な物語に、ただただ私は圧倒されたまま最終回を見ていた。
 それまでは、人の業を書いていた富野が、V以降、ブレンパワード、ターンエーと女性の業を描いていくことになる。それはただ破滅へと進んでいく様だけではなく、女としての悲しみ、母としての強さを描くことでもあった。

 V放映当時、私はたまたま新聞の読者投稿で知った山田詠美(直木賞作家)を読み始めた頃でもある。それは男には絶対にわからない女性の感性を私に見せつけた。Vは男の作った物語であるけれど、親としててこうあって欲しいと言う富野の願いが満ちている。このふたつが、私の物語観だけでなく、人生観をも変えさせた。
 だから、私の最高傑作はVガンダムである。それまでは私も男の欲望に溢れた…つまりハーレムの作品を見て喜んでいたが、Vを見てからはそういう作品の女を見ているのがアホらしくなったので、そういうゲームやアニメを全く見なくなってしまったわけである。ね、人生観変わってるでしょ?

 ちなみに、プロフィールの好きな女キャラのところにカテジナ・ルースと書いているのは、決してカテジナみたいな女の子が好きだ、つきあいたいという意味ではなく、「素晴らしい演技を見せてくれた女優」という意味で好きだと書いているのでお間違いなく。ガンダムの中に付き合いたい女性なんかいません。

2001/3/15
中村嵐
この論評は永遠の親友、Audi.H氏のリクエストにお答えしました。
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