「全日本 反メガネっ娘連盟・総本山」……宣戦布告と見なす。当方に迎撃の用意あり。ところで『パワプロ2000』、うちの近鉄のローズがシーズン本塁打140本をかっとばしました。バランス悪すぎます。パワプロの5だったか6だったかのサクセス・モード、めがねっこと海に行くと眼鏡を外すし。ときメモ2にはめがねっこ、いないし。「眼鏡っ娘」を商標登録するという噂も流れているし。コナミ、断固糾弾!
ハラショ〜! 最近寝て食う以外何もしていない様な気もするが。
取り敢えずテストは終わったが、既に再試は受けないと卒業出来ないことが確定しております。>はいぼく様へ
宣戦布告よりも、コナミの商標登録よりも、私にとっては
近鉄でパワプロをやる人を見たことが一番の衝撃でございます…でもあれなんだよな〜最近任天堂のゲームしかやらないからメガネッ娘いないんだよな〜
身の回りに。
本当に嫌いだから、わざわざ調べてネタにするような気力もないし…
メガネ嫌いの大半は、ヘタレ糞ゲームや、ヘタレ糞マンガの眼鏡っ娘に不幸にも遭遇してしまったことによって生産される。最初に少女マンガに出会えていたら、この眼鏡っ娘嫌いという不幸な性格にならずにすんだだろう。
眼鏡っ娘に罪はない。安易に眼鏡っ娘を動員するヘタレ糞ゲームに罪がある。クソゲーを憎んで、眼鏡っ娘を憎まず。ところで、パワプロ5はロッテ、パワプロ6はダイエーでプレイしました。プロ野球ファンとして、普通でしょう。東京ドームの日本ハム戦、レフトスタンドにはよくかわいい眼鏡っ娘がいます。
ドット・コム!
最近、某ISPのCMによる「Don't spend money!」ミュージカルが脳内で繰り返し上映されており、アレな儂です。上映といえばC社の「弟切草」が映画化されるそうですな。未確認ですが。飲んでもHPが100回復しないほうの弟切草ですよ。大洪水のワナも踏みませんし、えぇ。
>ロッテでプレイしました。プロ野球ファンとして、普通でしょう。
野球はよく知らないが、サブローも応援してやって下され。そのうち彼もメジャー行きますよ。えぇ。
ニ遊間の薄いロッテは来季サブローをセカンドにコンバートする。
山本監督は「これで内野が厚くなった」とかほざいて喜んでいるが愚考ははなはだしい。
ロッテは一塁・指名打者・サードに初芝・ボーリック・石井・福浦と人が余っているのだから
誰か一人を放出してセカンドを連れてくればいいのだ。
私見では初芝あたりを阪神に出せば田中秀太でも平尾でも今岡でも喜んでくれるだろう。
阪神も新庄がいなくなってから日ハムの西浦を獲得に乗り出した。
わしはやきゅつくの阪神で一番最初にやったのが西浦獲得だよ…ほんと、日本の下位球団は
バカだから困る。
関係ないが、日ハムは未だに場内ナレーションはバカへきるなのか?
なにやら、マリンスタジアムで年越ライブをやるらしいが…雨降れ。
いや、雨と言わず雹でも槍でも触ってくれ。>弟切草
次回作はゲームボーイカラーですが兄さんはどうするんですかね?
3月にはアドバンスな奴が出ますが。週産200万だとさ。2週でドリキャを抜くね。最近深夜の私に脳内革命してくれるのはレイクエンジェルの新CMですな。
新しい奴の「大ピンチ」は発音おかしすぎです。
あとはテレビ東京の周波数告知が新verに変わったのが密かな喜び。>少女マンガ
出た、少女漫画(笑) いやあ、夢☆幻と完全に趣味が合いますのう。そういや最近見ないぞ。
またもや夢☆幻死亡説が千葉大を中心に流れているようです。もう5度目か…
王道勇者はきっと彼に変わって小人さんが年内に仕上げてくれることでしょう。ええきっと。取り敢えず、映画とかドラマとか漫画とかアニメとかゲームとか見ていると真人間になれないと思うので私はオススメしません。
取り敢えずアリー・myラヴかグレッグ&ダーマ二人は最高!でもオススメします。
阪神は阪神で、1塁しか守れない奴が多すぎるような気が。まあ、大豊を解雇したから、いいのかな?
そもそも、二塁手は球界全体で手薄なような気もします。特にパ・リーグの二塁手はしょぼしょぼな感じが。ローズの行く末が気にかかるところ。
バカへきるって、誰じゃろ? 日本ハム戦はよく行きますが。千葉マリンスタジアムには稀にしか行きませんが、試合開始前に地元名産の野菜を両監督に贈呈するところなど、ほほえましいです。で、オルグ。
自国文化よりもアングロ・サクソン系文化のほうに優位性を認めるのなら、アリーmyラブみたいな脳天気似非人情テレビドラマよりも、『スネーク・アイズ』のほうが眼鏡的には優れているでしょう。『ビバリーヒルズ』では、アンドレアがよかったですね。眼鏡を外すところが断固糾弾ですが。
また、創作物を否定されるのであれば、まずは渋谷−原宿間の明治通りを歩いてみることをお薦めします。優秀な眼鏡っ娘がたくさん歩いています。明治通りには、昨年から999.9など眼鏡フレームの新進ブランドのモデルショップが進出しはじめています。渋谷ではRog by Pokerfaceなどアイウェアとしての眼鏡スタイルを提案し続けている老舗も健在で、いま一番ホットな眼鏡磁場を形成しています。mono-magazineなどの雑誌もアイテムとしての眼鏡に注目し、「アグレッシヴな眼鏡」という特集などを組んでいます。「眼鏡=オタク」という図式=偏見そのものが非常にオタク的な発想であり、もうすぐ21世紀という世の中では時代遅れの考えでしょう。その偏見を打破するという点では、全日本 反メガネっ娘連盟の活動にも意義があると認めます。
が、問題は「眼鏡=オタク」というワンパターンの図式であり、眼鏡っ娘そのものが問題なのではありません。眼鏡っ娘そのものを救うために「眼鏡=オタク」という図式を相対化する活動であってほしいものです。
ドット・コム!
(前略)
>交換取引
眼鏡っ娘ですか。宴会用の鼻メガネしてる女装癖のある中年も含まれますか。
去年の今頃、見たような記憶が。
(中略)明日は寿司屋で経費計上です。今日も元気。
ここ数日はブルーワーカーと化し連日仕事のためネットもHP更新もUOも御無沙汰しておりましたがようやく連休が入ったので今日はネットできます。UOもやりたいのだが更新もせねば…
あばげまはあとラストシーン書けば完成というとこまできて仕事のため一週間放置しております…とりあえ〜ず、今は削除してしまったけど、昔はJAMFの冒頭には「ここで糾弾するのはアニメ・ゲームのパターンとしてのメガネッ娘であり、現実に眼鏡をかけている女性は別です。私本人も眼鏡はかけています」
と書いてありました。
メガネと眼鏡は別物である。というのがJAMFの公式見解であります。
そもそもアニメオタクがアニメの論証にモノマガジンのようなヒッピー雑誌の力を借りる様では
墜ちたものですな。
映画のような、とかドラマのような、とかそういう形容詞をアニメやゲームの褒め言葉にしてはばかりない愚民どもが世の中にあふれかえっていますが、そんなものはゲームやアニメを貶めるだけだ。
ま、私は別にアニメなんか「滅んでもらって」大いに結構なのでど〜でもいいですが。
ゲームだけは守りきる為にプレステ不買、スクウェア不買、バンダイ不買の3不買運動を私はもう何年も続けていますがな。思うにあなたは現実でも「メガネをかけた女性」が好きなようですから、それは私が糾弾するような事柄にあらず。JAMFの目的はページの冒頭に掲げた
「全日本総オタク化の防波堤たらん」ことです。
結局オタクなんて「メジャーになりたい」でも「マイナーの楽しみを捨てきれない」
その相反する原理の間で揺れ動く愚かな生き物でありますから。
>眼鏡っ娘ですか。宴会用の鼻メガネしてる女装癖のある中年も含まれますか。眼鏡っ娘とは、「眼鏡っ娘イデア」を分有した存在です。もしも「宴会用の鼻メガネしてる女装癖のある中年」が眼鏡っ娘イデアを分有しているとしたら、その存在は眼鏡っ娘です。そうでなければ、眼鏡っ娘ではありません。
「イデア」とは周知のように、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの提示した概念です。我々が現世でものごとの真理を見ることができるのは、魂がイデア界でものごとの真の姿を見ていたからだという発想です。一般的な認識は、我々の魂がかつてイデア界に存在したときのことを「想起(アナムネーシス)」することで可能になります。個々の眼鏡っ娘を「眼鏡っ娘」と認識できるのは、魂が眼鏡っ娘イデアを想起することによって成り立つわけです。(この場合の「魂」とは、むろん古代ギリシア語の「プシュケー」であり、現代心理学の「サイコロジー」につながる概念)
しかし、ここで一つの問題があります。個々の眼鏡っ娘をいくら認識したとしても、我々が「眼鏡っ娘イデア」そのものには到達できないという問題です。これは中世スコラ学のノミナリズムに関わる問題から現代哲学にまで引き継がれた問題で、現代では英米系論理実証主義の領域でクリプキが主に取り組んでいる問題です。
プラトンにひきつけて考えれば、彼が『パイドロス』で展開した「狂気」の問題が興味深いでしょう。「狂気」は古代ギリシア語では「マニア」と言いますが、プラトンは「人間の中で偉大なことというのは、マニアによってのみ生ずる」と言っています。これは、神がかりの狂気(マニア)の状態になったとき、初めて魂がイデア界に到達できることを意味しています。この状態で、初めて「めがねっこイデア」そのものを見ることが可能になります。ですから、我々が目指しているのは決して「おたく」と言われている状態ではありません。我々の理想は「眼鏡っ娘イデアそのものを見ること」であり、それは「マニア」の状態に入ることです。つまり、「めがねっこマニア」こそが理想であるわけです。
あけまして、早速失礼。>そもそもアニメオタクがアニメの論証にモノマガジンのようなヒッピー雑誌の力を借りる様では墜ちたものですな。
えーと、かなり勘違いが入っているようなんで、早いとこ修正してください。わしは「アニメオタク」ではなく、「めがねっこマニア」です。わしが救いたいのは「おたく」ではなく、「眼鏡っ娘」です。「おたく」がどうなろうと、知ったこっちゃないです。ただ、「おたく」攻撃にかこつけて、眼鏡っ娘が攻撃されるのが我慢ならないだけです。
マジンガーZの超合金を熱烈フィーチャーするようなモノマガジンが「ヒッピー雑誌」かどうかは知りませんが、わしは眼鏡っ娘を応援するメディアであれば、なんでも取り入れます。アニメとかゲームとか、限られたメディアに固執する必要なんて、ありません。
総統氏は、どうも「眼鏡っ娘=おたく」という固定観念が強すぎるようです。それは、ゲームというジャンルに視野が限定され、その他の広範な文化領域における眼鏡っ娘の存在形態について検討を加えていないことに由来するのでしょう。>「全日本総オタク化の防波堤たらん」ことです。
がんばってください。ただ、その目的のためには、眼鏡っ娘を貶める必要は一切ありません。眼鏡っ娘をダシに使われるのは、迷惑です。
>結局オタクなんて「メジャーになりたい」でも「マイナーの楽しみを捨てきれない」その相反する原理の間で揺れ動く愚かな生き物でありますから。
別にオタクを擁護するわけではありませんが、この特性がおたく特有のものと思っているのなら、人間観察というか社会経験が乏しいとしか言いようがないです。「ナショナリズム」の行動原理などを見れば、「普遍と特殊」のアンビバレントな関係が人間に一般的に見られる行動パターンの一つであることは、容易に見出されることでしょう。
>アニメ・ゲームのパターンとしてのメガネッ娘
総統氏は、アニメ・ゲームのパターンとしての眼鏡っ娘に関し、どの程度の分析を加えているのでしょうか? わしが見るところ、ゲームで眼鏡っ娘が注目され始めたのは1989年の『電脳学園』からですが、頻繁に登場し始めたのはここ5年のことです。5年という歳月は、ジャンルの成熟にとってはあまりにも短すぎる期間です。ギャルゲーの粗製濫造ぶりは目を覆うばかりです。眼鏡っ娘の扱いもあまりにも粗雑であり、めがねっこマニアとして許しがたいゲームが数多く存在します。そこには「めがねっこイデア」のかけらも存在しません。しかし重ね重ね主張しますが、それは眼鏡っ娘のせいではありません。ゲームというジャンルが未成熟な故です。
だから、前の書き込みでは「少女マンガ」というジャンルを参照軸として提示しました。少女マンガは眼鏡っ娘に関して30年の蓄積があり、社会学の言う「アイデンティティ」と「リスク」の近代的自我モデルを提示するところまで発展しています。このあたりはTINAMIXに掲載された文章で論理展開したので、暇なら批判・検討してください。(http://www.tinami.com/x/review/06/)
粗製濫造された未成熟なゲームを非難することは、容易です。ただ、それが批判として意味を持つのは、ジャンル自体の発展可能性を示し、ジャンルの成熟に貢献する場合でしょう。眼鏡っ娘は少女マンガの領域では30年の蓄積があり、一定程度の成果を挙げています。その成果がゲームに輸出できるとしたら、ゲームはジャンルとして新しいステージを迎えることになるでしょう。眼鏡っ娘はジャンル成熟の橋頭堡としての意味を持ちえ、その意味で可能性を体現している弁証法的な存在です。眼鏡っ娘に限らず何かを「否定」することは弁証法的な意味でのみ意義を持ち得ますが、JAMFの活動は弁証法的創造の契機になっているでしょうか。さもなくば、単なる「嫌がらせ」です。
おたくを非難することは勝手にやっててもらっていいんですが、眼鏡っ娘を看板に据えるのは論理的にも倫理的にも大問題です。現状の活動にもあっていないようですしね。「反でじこ」にしたほうが、よろしいかと。
突発的同窓会発生により、コーラしか飲んでいないのに6600円。ゲーム一本買えるじゃん。
どうにかしてくれ。…う〜む、正直余りに大量の書き込みなのでどうレスしていいのか判断しかねるので
多少乱雑になるやも知れませんが。そもそも、何故JAMFが存在するのか。それはアニゲーオタクを絶滅させることです。
それが不可能ならば、ゲームやアニメそのものを滅亡させることもいとわないということです。
「確かにゲームとして面白いけど、ヒゲオヤジがジャンプしていても燃えないよなあ」
とか言う奴を抹殺するための活動です。
では、そのためにどんな活動をしたらいいのか。その結論が「反メガネッ娘」なのです。21世紀はバカの世紀です。森・野村が長嶋の前に負け、
アメリカではエリート政治家のゴアがボンボンのブッシュに負け、
ほぼ同時期に日本では、やはり東大→外務省→宏池会の加藤が、
ただのオジサンである小渕、森に負けました。
このバカが生きる時代に、プラトンだとかTINAMIX?とか、そんなものは無駄でしかないのです。
新型PS2にはメモリーカードが同梱されていないから別に買わないとセーブが出来ないのに、
ヨドバシカメラの店員に説明されても「お金がかかる」と買わないで、さらに家に買えって箱を開けてからAVコードがないと騒ぎ立てるような愚民どもが世界を支配しているのです。
メガネッ娘=オタクではないという余りにもあきらかなことを、改めてどんなに証明しても、アニメを見る、ゲームをやる、それだけでオタクと見なすのが大衆なのであります。
だから私の活動においてメガネッ娘の定義、オタクの定義など別にどうでもいいことなのです。
この下に書かれているような、aikoのボーイフレンドの歌詞のテトラポットは商品名だが紅白歌合戦で歌わせていいのか?というような議論は愚の骨頂なのであります。
彼ら愚民たちにオタクとマニアの違いを理解させ、オタクだけを抹殺するなどと言う行動は、
完全平和主義と同じように無駄の絶頂でしかないのであります。
ならば彼ら愚民どもにも理解し得るシュプレヒコールとは、ただ単純なる語句しか有り得ないのです。つまり、それこそが「反メガネッ娘」という、この一言なのです。
だから別に、メガネがいいとかわるいとか、メガネッ娘に対する認識が違うとか、そんなことは
あまりにも些細、私の野望の前には実に些細なことなのであります。
我はこの「反メガネッ娘」というシュプレヒコールの元に大衆を扇動し、アニメとゲームを壊滅させ、ヒゲオヤジと赤玉だけが細々と発売される、それこそが私の望みであります。つまり、あなたが下に述べたようなことをどれだけ大衆に理解させようとしても、
私がただ一言、「反メガネッ娘!」と叫べは国民はそれだけで響くのです。
この現実の前には、あなたはただ、小村寿太郎の様に愚民の波に飲まれることでしょう。
それが人類を抑圧から解放する為に生まれた、現代民主主義の成果なのであります。
>21世紀はバカの世紀です。山本夏彦翁によれば、「愚民どもに21世紀は来ない」らしいですな。大衆社会段階に突入した高度資本主義は内側から民主主義を破壊するという論理ですが、それと同じ発想ですね。
ただ、「バカの時代」は19世紀後半から始まっていると見るのが社会思想史的に正しい見方です。17世紀末にロックの社会契約論によって市民社会の原則が確立され、18世紀にはきらびやかな啓蒙主義が現出しました。ところが、「人類すべてに英知を与えることなどできない」というあまりにも当たり前の事実が19世紀に入って暴露されます。アメリカ民主主義の堕落を予見したトクヴィル、イギリスのバークあたりが代表的な論客でしょう。また、社会契約論が全体主義へ至る道筋はヘーゲルの「国家理性」によって確立されました。一方でマルクスが市民社会の偽善性を完膚無きまでに暴き出します。そして20世紀に入り、ナチスのイデオローグとなったカール・シュミットによって「大衆社会」の論理が整備されます。19世紀から20世紀初頭にかけて、確かに総統氏の言うとおり「いかんともしがたい愚民どもをどう制御するか」が課題となる状況が現れました。>ならば彼ら愚民どもにも理解し得るシュプレヒコールとは、ただ単純なる語句しか有り得ないのです。
これがカール・シュミットの論理ですね。しかし歴史を見れば、シュミットが敗退したのは自明です。シュミットの誤りは、大衆を操作しうると夢想した点にありました。20世紀後半には、イギリス自由主義の伝統を担うJ・S・ミルや、後にハイデガーの実存主義につながる論理を提出したオルテガなどの大衆社会論のほうが説得力を持つようになります。
そして問題は、21世紀の状況をどう見るかにあります。リオタールやボードリヤールなどのポスト・モダン論者の緒論によれば、1970年頃から世界的に大規模な変化が生じます。それは近代的な「大きな物語」の終焉とされます。が、ハーバーマスやギデンズなどによれば、それは逆に「近代が徹底化」した状況が訪れたと分析しています。17世紀に登場した市民社会の論理は、19世紀にいたって愚民どもによって破壊されました。が、誰もが豊かになった20世紀後半の状況は、再び市民社会の論理を復活させようという気運を盛り上げています。その証拠に、愚民どもを操作することを目的としたケインズ経済学が1980年以降全世界的に衰退し、自由主義を前面に打ち出したハイエクの経済理論が流行していますね。
つまり、20世紀後半には、「大衆社会」状況すら過去のものとなったわけです。>この現実の前には、あなたはただ、小村寿太郎の様に愚民の波に飲まれることでしょう。
30年以上前だったら、説得力を持ったセリフかもしれません。陸奥宗光にしろ、大局を弁えない1愚民の暴挙によって不利な状況での交渉を余儀なくされました。昭和戦前期の農本主義などは、愚民の持つエネルギーが遺憾なく発揮された格好の事例でしょう。
が、高度成長以後、状況は一変しました。現在はハイエク主義が流行し、ギデンズ社会学が力を持つ時代です。「現実」に対応できていないのは、どうも総統氏の方のようです。総統氏は、三島由紀夫のように、民衆の前に立ちつくすピエロの役割しか演じることができないでしょう。>それが人類を抑圧から解放する為に生まれた、現代民主主義の成果なのであります。
そんなことは、130年以上前にもっと洗練された形でトクヴィルによって言い尽くされています。ワイマール体制に反旗を翻したカール・シュミットの緒論を参照してもいいでしょう。が、1970年以降、世界は大きく変化しています。19世紀半ばに登場した大衆社会的状況が消失しつつある今だからこそ、新たなる市民社会が構想される契機があります。眼鏡っ娘が1970年以降に大流行したのは、偶然ではありません。ハイ・モダン状況と一致したからこその躍進だったわけです。
>私がただ一言、「反メガネッ娘!」と叫べは国民はそれだけで響くのです。
この多チャンネル化の時代、あまりにも単純で陽気な夢想ですね。眼鏡っ娘はギデンズが言うところの「ハイ・モダン(徹底化された近代)」を体現する存在です。総統氏が安易に「反メガネッ娘」と言えるのは、なるほど、20世紀前半までの大衆社会論に依拠していて、1970年以降のハイ・モダン状況をフォローしていないせいだということが、よく解りました。
>私の野望の前には実に些細なことなのであります。
ハイ・モダン状況の分析が伴っていない限り、その野望はドン・キホーテのように滑稽な誇大妄想となるでしょう。少女マンガで1970年以降に眼鏡っ娘が大流行したのは、確実にハイ・モダン状況と合致した現象です。1995年以降にギャルゲーの領域で眼鏡っ娘が大躍進したのは何故なのか、今のところ的確な分析は現れていません。野望を実現させたいのなら、まずは的確な現状認識から開始したらどうですかね? すでに21世紀だというのに、認識枠組が古すぎますよ。まあ、認識枠組が古いのは総統氏の勝手ですが、眼鏡っ娘をダシに使われるのは不愉快なので、徹底的に修正しておきます。
「反でじこ」にしたほうが、いいんじゃないの?
はいぼくさまへ。
人の発言に細かくいちゃもんつけていただいてありがとうございます。
が、貴方の発言に一つ府に落ちないことがあります。
それは何度も「反でしこ」という言葉を使うことです。
彼らにはでじこを愛する自由が無いと言うのですか?
デシコだろうとさくらだろうとセングラだろうと、彼らには愛する権利があるはずです。
そしてそれと同じように、ものを嫌う権利だって当然あります。
反メガネッ娘、アンチ巨人、反政府運動…全てのものアンチは存在します。
それを、メガネを愛する権利だけを増長し、メガネを嫌うことだけを禁ずるような行為は
それこそまさにアナクロ思想、封建的な意思の統制ではないのですか?
私はメガネを愛することをやめろと言うような一方的かつ強制的な発言をしたことは金輪際ありません。
盲目の愛は身を滅ぼしまするぞ?
…盲目でなくても、愛は身を滅ぼすが。
>それを、メガネを愛する権利だけを増長し、メガネを嫌うことだけを禁ずるような行為はそれこそまさにアナクロ思想、封建的な意思の統制ではないのですか?うーん、ひどい誤読。わざと?
わしは、「眼鏡っ娘を攻撃することは論理的にも倫理的にも問題だ」と論理的に指摘した覚えはありますが、「メガネを嫌うこと」を一方的かつ強制的に禁じた覚えはありません。どこで禁じてますか?
それに、ちゃんと書いたはずです。「眼鏡っ娘に限らず何かを「否定」することは弁証法的な意味でのみ意義を持ち得ます」って。これは「封建的な意思の統制」なのかな?>それは何度も「反でしこ」という言葉を使うことです。
もしも総統氏の「私の活動においてメガネッ娘の定義、オタクの定義など別にどうでもいいことなのです」という言葉が本当であれば、同様に「でじこの定義」もどうだっていいはずです。「反メガネ」と自称できるのなら、同様に「反でじこ」を名乗るのも簡単でしょう。それなのに、なぜ、でじこに関しては唐突に「愛」だの「自由」だのという言葉が出てくるのでしょう? それとも、「メガネ」と「でじこ」を差別する論理的必然性でもあるのですか? メガネとでじこの差は、総統氏にとっては「あまりにも些細、私の野望の前には実に些細なこと」ではないってことでしょうか。そんなことないでしょう。
総統氏の発言を信頼するならば、特に「反メガネ」を名乗る論理的な理由は一切ありません。「反メガネ」という看板を掲げる論理的理由が何もないのであれば、「反でじこ」に看板を変えても活動内容は全く変わらないから問題は一切ないですよね? そういう意味で言っているのに、「彼らにはでじこを愛する自由が無いと言うのですか?」とは、とんでもない曲解です。
我々が眼鏡っ娘を愛しているにも関わらず総統氏は「反メガネ」を名乗っている。それと同様、でじこを愛する人がいるにも関わらず総統氏は「反でじこ」を名乗ることができるわけです。「愛」とも「自由」とも「権利」とも関係のない話です。腑に落ちたでしょうか?まあ、総統氏は実質的には眼鏡っ娘攻撃を意図していないことを確認しましたので(オタク批判なら、思う存分やっててください)、あとの問題は「反メガネ」という誤解を招く看板です。もしも看板を「反でじこ」や「反さくら」や「反セングラ」に変えても活動内容が変わらないのであれば、「反メガネ」という名称の変更を一考していただきたい。内容がどうあれ、「反メガネ」という名称は我々の魂を傷つけ、不愉快にさせます。不愉快にさせられた以上、抗議も必然です。で、総統氏が本心から眼鏡っ娘を撲滅しようとしているのであれば、和解の余地は一切なく、どちらかが倒れるまで戦い続けるか、お互いが接触しないように完全に分離するしかありません。ユーゴスラビアの状況と同じです。
が、総統氏は幸いにも実質的には眼鏡っ娘攻撃を意図していないようです。であれば、看板の変更によって衝突は容易に避けられます。そして看板変更に伴う論理的障害は存在しません。だから「反でじこ」に看板を変更できないかと提案してみたわけです。それは「反さくら」でも「反セングラ」でも、「反メガネ」でなければ結構。これが「共存共栄」の知恵というやつです。我々は「めがね道」を独自に進むし、総統氏はヒゲオヤジの道を独自に進む。その活動は矛盾しませんし、むしろ協力すら可能です。それが衝突してしまうのは、総統氏が「野望」のために「反メガネ」を自称し、眼鏡っ娘をダシに使うためです。「反メガネ」を自称しないですむのならば、それが共存共栄のための最善の手段でしょう。
もしも「共存共栄」の道を選ばないというのであれば、そこには「悪意」を感じ取ることしかできません。
はいぼくさんへ。他人の作品はタイトルも内容も含めてひとつの作品です。
看板もその中に含まれます。自分たちが不愉快になるという理由だけで
他人の作品を変更しろというのはあまりに傲慢です。
…反メガネッ娘を名乗る意味が無い?
あほぬかせ。決定的な理由がある。
「俺がメガネッ娘が大っっっっ嫌い!!!!だから」だ。
見るのも癪に障る。貴方がメガネを好きだと名乗る資格があるのなら、
私にだってメガネが嫌いだと声を大にして言う権利がある。>『自由論』は読んだことある?
そんなもんよんだって腹ふくれねえよ。
お前は愛を語るのに他人の言葉を使わなければ言えないのか。
俺はめがねが嫌いだと言う思いを「反メガネッ娘」という一句にこめた。
貴方には私が作り出したこの概念を崩すような言葉は無い様ですね。貴方はリンクをたどってきたようなので(これは完全に推測なので違ったら謝罪する)
私の人となりはまったくわからないと思いますが、私はアマチュア作家です。
作家とはコピーライターでもあります。(題名・ネーミング・各話タイトルetc…)
私の作った「反メガネッ娘」というコピーは多くの賛同・怒り・爆笑の声を頂きました。
自分で自分のコピーを誉めるのもなんですが、これほど簡潔で、
しかしインパクトがあって、多少漫画やアニメをかじっている人なら即座に意図することが把握でき、そして作者の姿が明確に映し出されていると言う、正直言って「完璧なる」コピーです。
言葉自体は使い古されているものですが、この「コロンブスの卵」的な発想によるコピーを、
使い古されたロジックで打ち崩そうとしても残念ながら不可能です。
>「俺がメガネッ娘が大っっっっ嫌い!!!!だから」だ。最初からそう言えばよろしい。「私の活動においてメガネッ娘の定義、オタクの定義など別にどうでもいいことなのです」などと言い、ヒゲオヤジの野望云々などと言い出すから、当方も「共存共栄の可能性」を模索する気になります。最初から「嫌い」と言っていれば、「共存共栄」の提案が無意味なことはすぐに解ります。「野望」の話は、いったい何だったの?
>貴方がメガネを好きだと名乗る資格があるのなら、私にだってメガネが嫌いだと声を大にして言う権利がある。
確認する必要があります。
総統氏には、確かに「メガネを嫌う」権利はあります。が、それを「声を大にして言う」場合、権利と共に責任も生じます。自分が発表した作品によって他人が傷ついたとき、どう責任をとるのか。発表には、常に責任が伴うわけです。総統氏が身内に「俺はメガネが嫌いだ」と言っているだけなら、わしもわざわざ批判などしません。勝手に言っていればよろしい。が、WEBで不特定多数に公開するということは、発表に伴う責任も引き受けたということです。不特定多数には、めがねっこを好きな人も当然含まれます。まさか、めがねっこを好きな人がWEBを覗くことを想定していなかったわけではないでしょう。それとも、めがねっこ好きな人間が傷つくのはお構いなし、むしろ傷つけてやろうという悪意に満ちた活動なのですか?
>私の作った「反メガネッ娘」というコピーは多くの賛同・怒り・爆笑の声を頂きました。
わしの場合、まず最初に看板に傷つきました。悲しかったです。が、中身を見てなんとも言えない嫌な気分になりました。あまりにも陳腐すぎるのです。古すぎるのです。何も知らなさすぎるのです。
こんなに陳腐で古くさくて無知な人間が、「反メガネ」を堂々と名乗る。そのことが残念でなりませんでした。論理的にめがねっこの現状を批判してくれているのなら、ここまで悲しくならなかったでしょう。何度も言っているように、弁証法的発展のために、むしろ歓迎したことでしょう。わしは、総統氏が単に「反メガネ」だから批判しているのではありません。古くさいめがねっこ観に依拠し、陳腐な難癖をつけているということのほうが問題なのです。
わかりますか? 総統氏の活動は「反メガネ」に役立つというより、古くさくて陳腐なめがねっこ観の再生産に役立つだけです。わしにとっては「反メガネ」が問題なのではなく、古くさくて陳腐なめがねっこ観が蔓延することの方が問題なのです。古くさくて陳腐なめがねっこ観を破壊してくれるのであれば、「反メガネ」も有効です。それが弁証法的発展のための否定です。総統氏の活動は、そういう否定になっていますか? 陳腐な意識の再生産に荷担しているだけなんじゃないですか?
めがねっこがそんなに単純じゃないことは、わしの啓蒙活動で明らかになりつつあります。わしのTINAMIXなどの文章を読んで従来の陳腐なめがねっこ観(コンプティークのめがねっこ観など)から離脱していった人はかなり多いことを報告しておきます。
啓蒙の光を浴びて陳腐なめがねっこ観から離脱した人は、「反メガネ」を見ても、「陳腐なめがねっこ観に依拠して反メガネを名乗るとは、時代錯誤だなあ」としか思わないでしょう。総統氏にも、狭い了見の陳腐なめがねっこ観を早いとこ捨て去ることをおすすめします。ムリに好きになれとは言わないけど、もう少し視野を広げることはお勧めします。
改めて、カミシロ氏へ。最初からの議論の流れは把握してますでしょうか?
わしが言いたいのは、最初からほぼ一点にかかっていることが容易に見いだされると思います。すなわち、「『眼鏡っ娘=オタク』という図式は総統氏の勝手な思いこみにすぎない」ということ。これだけです。総統氏が問題の核心に触れてくれないので話題が拡散しますが、わしが必ずこの地点に議論を戻していることは、容易に看取できると思います。で、わしは、総統氏が言った「そもそも、何故JAMFが存在するのか。それはアニゲーオタクを絶滅させることです」という言葉を信じたため、「共存共栄」の具体的な提案をするに至りました。総統氏の目的が「オタクの撲滅」であるとすれば、そもそも眼鏡っ娘を攻撃する必要は最初から存在しませんからね。当初から看板の変更を要求していたわけではないことは、議論の流れを見ていただければわかると思います。
が、彼の本心は「メガネが嫌いだ」ということでした。わしが考えた共存共栄の策は、残念ながら無用となりました。まあ、そもそも「看板の変更」は妥協案の一つでしかなく、他に様々な妥協点を見いだすことができると考えています。主義主張が異なっても、お互いに共存共栄することは可能です。それが人間の知恵です。
で、結局、「『眼鏡っ娘=おたく』という図式は総統氏の勝手な思いこみにすぎない」という事実を繰り返し指摘したいと思います。このことは、何回も言いましたが、わしがTINAMIXの論文などで実証的に展開して明らかになっています。
しかし、『眼鏡っ娘=おたく』という陳腐で古くさいイメージは、残念ながら各種媒体で再生産されています。近年では『コンプティーク』という雑誌が陳腐な眼鏡っ娘観を堂々と垂れ流しました。わしが批判するのは、誤解と無知に基づいて眼鏡っ娘イメージを陳腐化する言説であります。実際の眼鏡っ娘は、もっと多様な存在形態を持っています。が、総統氏の活動も、「反メガネ」を名乗りつつも、実際は『コンプティーク』と変わらない陳腐で古くさいイメージに依拠し、その陳腐な「枠組」の範囲内で「おたく」を攻撃しているにすぎません。視野が狭いというのは、その「枠組」の存在自体に無批判なことを意味します。陳腐な枠組に捕らえられているという点では、総統氏も「おたく」も、ちっとも違いがありません。
わしは、そういう「枠組」の存在自体が悲しいのです。「眼鏡っ娘=おたく」という陳腐な「枠組」自体の問題性に気がつかず、その「枠組」に捕らわれて視野が限られてしまっては、眼鏡っ娘を支持しようが、反対しようが、どちらにしろダメなんです。賛成しようが反対しようが、眼鏡っ娘の真実を反映していない点では、ちっとも違いがないわけです。
「眼鏡っ娘=おたく」という現実を反映していない陳腐な枠組自体を相対化・脱構築していくような創造的な活動に発展することを望んでいます。
>>「俺がメガネッ娘が大っっっっ嫌い!!!!だから」だ。
>最初からそう言えばよろしい。「私の活動においてメガネッ娘の定義、オタクの定義など別にどうでもいいことなのです」などと言い、ヒゲオヤジの野
望云々などと言い出すから、
>当方も「共存共栄の可能性」を模索する気になります。最初から「嫌い」と言っていれば、「共存共栄」の提案が無意味なことはすぐに解ります。
>「野望」の話は、いったい何だったの?
あの…なんと申し上げていいのか困りかねているのですが…私、12/18のあなたへの最初の書きこみのレスで、
「本当にメカネッ娘が嫌いだから」と書きこんでいるのですが…
それに、普通の理解力を持つ人ならば「反メガネッ娘」という語句を見れば
「この人はメガネが嫌いなのか」とあきらかにわかると思うのですが…
私、なにかまちがったこといってます?
>「本当にメガネッ娘が嫌いだから」と書きこんでいるのですが…
当然、読みました。ですから、どこをどのように嫌っているのかを理解しようと、いくつかの質問をしてみたわけです。「総統氏の眼鏡っ娘イメージは
単なる誤解に基づいている」というのがわしの観察ですから、「総統氏はメガネの何をどのように嫌いなのか」を把握するのは重要な作業です。作業を続
ける中で以下の回答を得ました。
>「私の活動においてメガネッ娘の定義、オタクの定義など別にどうでもいいことなのです」
「メガネッ娘の定義」はどうでもいいということですよね。つまり、「何をどのように嫌いなのか」という明確なイメージがあるわけではないし、イメ
ージを持つ必要があるわけでもないと理解しました。そうすると、以下の文言も単なる「方便」に過ぎないように読めます。
>「本当にメガネッ娘が嫌いだから」
定義もしないもの、具体的なイメージがないものを「嫌い」と宣言できるのは、どうしてなのか。わしが「野望」の話で理解したところでは、「メガネ
嫌い」が単なる方便に過ぎず、本心は「オタクの撲滅」にあるということでした。また、実際の活動を見たところでは、総統氏は具体的な眼鏡っ娘を嫌っ
ているのではなく、「パターンとしてのメガネ」を嫌っていると読みましたが、違いますか? 「本当にメガネッ娘が嫌いだから」という言葉を文言通り
に読めないのは、総統氏の他の言葉を総合的に判断した結果です。少なくとも「私の活動においてメガネッ娘の定義、オタクの定義など別にどうでもいい
ことなのです」という言葉と「メガネッ娘が嫌いだから」という言葉に整合性を持たせようとすれば、「普通の理解力を持つ人」はそう理解するはずで
す。
「パターンとしてのメガネ」は、わしとしても歓迎するところではありません。それは、眼鏡っ娘を陳腐なイメージに貶める行為です。
が、眼鏡っ娘がパターンに貶められたとしても、眼鏡っ娘に罪があるわけではありません。むしろ、眼鏡っ娘は犠牲者です。本当はもっと可能性に満ち
あふれているのに、つまらないパターンという枠組に押し込められて自由な飛躍を妨げられているという点で、眼鏡っ娘は被害者です。問題は、豊穣な可
能性を持つ眼鏡っ娘を陳腐なパターンに当てはめてしまう、なにかしらの「構造」や「メカニズム」にあります。
ですから、「パターンとしてのメガネ」が嫌いだとしても、それは「メガネを嫌い」なことの直接の理由とはなりません。罪を眼鏡っ娘に押しつけて
も、一番の問題である陳腐化の構造やメカニズムを隠蔽するだけです。たとえばアンチ巨人にしても、単に「巨人が嫌いだ」と叫んでいるだけでは何も解
決しないのと同じです。真に問題を認識しようとすれば、日本球界の構造とメカニズム全体に目を注がねばなりません。巨人に罪を押しつけるだけの行為
は、アンチ感情を癒すことはあっても、問題の包括的な認識とは関係がありません。むしろ、真の問題構造の認識を妨げ、ますます巨人とそれに寄生する
人々の繁栄を許すだけでしょう。
総統氏が本当に「オタクの撲滅」を目指しているのであれば、単に「メガネが嫌いだ」と言うことは真実からますます遠ざかる行為だと考えます。単に
陳腐なものを糾弾することは、同じく陳腐な行為です。なぜ陳腐化するのかという構造とメカニズムにメスが入ったとき、創造的な活動となります。
http://www.meganegane.com/
包括的な話をする前に、気になったことが2つほどあるので、それについてのレスをさせていただきます。
>総統氏のひととなりには興味がない。
正直いってびっくりしました。何故なら、「戦線布告」しておきながら、相手の情報を調べてもいないなんて。
さらに何も知らない相手と「共存共栄」しようなんて、狂気の沙汰です。
もっといえば、相手の伝言板に書き込んでおいて相手の最低限の情報も知ろうとしないのは、
社会人としての礼儀に欠けるのではないですか?
私どもの方は、ちゃんとあなたのHPを訪れ、簡単にではありますがあなたのプロフィールも調べました。
無論、別に私もあなたに私の人となりを知ってもらおうと思ったわけではありません。
例えて説明しましょう。「プロ野球選手のメジャー流出について」という討論会をしたとしましょう。
その場合、選手の立場として、ファンの立場として、経営者の立場としてetc…そういう発言があるでしょう?
そして、JAMFはコピーであると突然私が言い出してもあなたも読者も???となるだろうから、
「作家の立場として言わせてもらえば」JAMFはコピーであると発言したにすぎません。
無論、あなたもこのようなことは指摘されなくてもわかっているはずです。
ただ、それがあなたの愛するメガネッ娘に関するものだったが為に、冷静さを失ってこの様になったのだと思います。
だとすれば、あなたを狂わせたそのメガネッ娘は悪であります。つまり、壊滅させる対象であると言うことです。
>総統氏には、確かに「メガネを嫌う」権利はあります。が、それを「声を大にして言う」場合、権利と共に責任も生じます。自分が発表した作品によっ
て他人が傷ついたとき、どう責任をとるのか。発表には、常に責任が伴うわけです。総統氏が身内に「俺はメガネが嫌いだ」と言っているだけなら、
わしもわざわざ批判など しません。勝手に言っていればよろしい。が、WEBで不特定多数に公開するということは、発表に伴う責任も引き受けたと
いうことです。不特定多数には、めがねっこを好きな人も当然含まれます。まさか、めがねっこを好きな人がWEBを覗くことを想定していなかったわけで
はないでしょう。それとも、めがねっこ好きな人間が傷つくのはお構いなし、むしろ傷つけてやろうという悪意に満ちた活動なのですか?
では、私もあなたと同じ質問をさせていただきましょう。
はいぼく様には、確かに「メガネを好く」権利はあります。が、それを「声を大にして言う」場合、権利と共に責任も生じます。自分が発表した作品によっ
て他人が傷ついたとき、どう責任をとるのか。発表には、常に責任が伴うわけです。総統氏が身内に「俺はメガネが好きだ」と言っているだけなら、私も
わざわざ批判などしません。勝手に言っていればよろしい。が、WEBで不特定多数に公開するということは、発表に伴う責任も引き受けたということです。
不特定多数には、めがねっこを嫌う人も当然含まれます。まさか、めがねっこを嫌いな人がWEBを覗くことを想定していなかったわけではないでしょう。
それとも、めがねっこ嫌いな人間が傷つくのはお構いなし、むしろ傷つけてやろうという悪意に満ちた活動なのですか?
正直言って、私はあなたのHPを覗きに言って吐き気がしました。しかし、それはあなたにはなんの責任もありません。ただ私がメガネツ娘が嫌いなので
すから、 世の中にはそういう人もいるのだというだけで終わりです。しかもwebならもう2度と来なければすむ話です。
しかし、テレビではそうもいきません。
例えば私は禁酒家です。ビールのCMが流れるだけで不快です。最近はアイドルをビールのCMに起用することも多く、実に不快きまわりないです。
もっといえば野球です。プロフィールによるとあなたは巨人ぎらいの様ですね。だから日テレも見ないらしい。
その時のあなたの気持ちが、あなたのHPを見た私の気持ちです。徳光や福留などは、巨人ファンの私でさえ見るのが不快です。
しかし、あなたのメガネッ娘を擁護する活動は、巨人を擁護する徳光や福留と相違ないといえましょう。
JAMFは、まさにその為のマイノリティー保護の活動なのです。アンチ巨人は存在しても、アンチ広島は存在しません。
巨人はファンであることがメジャーだからアンチが存在し、広島は好きであること自体がマイナーであるからアンチが存在しません。
つまり、メガネッ娘がメジャーであるがゆえのJAMFなのです。
とあるリンクのページでも、「(メガネッ娘が)これだけメジャーになるとさまざまな考えが存在する様です」と書かれました。まさにそのとおりです。
あなたは私に「反デジコ」を進めました。確かにデジコも滅ぼすべき対象ですが、あんなマイナーなものを滅ぼしたところでゲームが救われることはない
のです。
さて、はいぼくさんは何度か同じ発言をしています。「核心」に触れないと。
私は無視したわけではありません。何故なら私にとっては核心でもなんでもないからです。
そう、ささいなことだからどうでもいいのです。
私は全てのキャラゲーを滅ぼそうとしているのは、「ヒゲオヤジと赤ダマ」発言であきらかですね?
全てのキャラゲーを滅ぼそうとしているのに、良いメガネッ娘と悪いメガネッ娘の選別をすることは無意味だからです。
善悪に関わらず、あまねく全てのメガネッ娘に粛清を与えることこそ、私の野望なのですから。
ただ、ならば何故メガネッ娘だけを攻撃するのか。それは貴方以外からも質問を受けることがあります。
私の発言を注視していればおわかりとおもいますが、では改めてお答えしましょう。
メガネッ娘とは、「長嶋茂雄」なのです!
今、野球界は存亡の危機に瀕しています。それは長嶋茂雄による弊害なのは間違いありません。
無論、長嶋茂雄自身には何の罪もありません。むしろ善人でありましょう。
しかし、彼の存在自体によって生み出される弊害は、あまりにも大きすぎます。
ならば、長嶋茂雄は退場すべきなのではないでしょうか?
無論、そんなことをすれば野球界は滅びると言う人もいるでしょう。事実私もその可能性はあると思
います。しかし、そんなことで滅びる野球界であれば、滅びても構わない、高校球児だけが生き延
び、メジャーの草刈り場となってもよいだろう。というのが、私の野球観であり、
当HPのトータルベースボール研究所設立の概念でもあります。
(あ、貴方は私の人となりには興味がないんでしたね。失礼しました)
そう、今、ゲーム界も存亡の危機に瀕しています。アニメなどはもう滅んだも同然です。
それはメガネッ娘を始めとするキャラクター文化の弊害であることは間違いありません。
無論、メガネッ娘自体には何の罪もありません。
しかし、彼女の存在自体によって生み出される弊害は、あまりにも大きすぎます。
ならば、メガネッ娘は退場すべきなのではないでしょうか?
無論、そんなことをすればゲーム・アニメは滅びると言う人もいるでしょう。事実私もその可能性
はあると思います。しかし、そんなことで滅びるゲームであれば、滅びても構わない、
ヒゲオヤジと赤ダマだけがひっそりと生き延びるのみでもよいだろう。というのが、
私のゲーム・アニメ観であり、当HPのJAMF及びゲーマー魂設立の概念でもあります。
今、ゲームはアニメ手法、映画手法が安易に取り入られ、ゲームは存亡の危機に瀕しています。
そのようなアニメに魂を縛られたものたちは粛清しなければならないのです。
そして、その彼らの母なるメガネッ娘は眠りにつかねばならないのです。
そのために、私はどんな罪でも被りましょう。その覚悟がJAMFなのです。
それでもあなたは、いつかはアニゲーの租税乱造がなくなからとメガネッ娘を擁護するのですか?
それではあなたはシャアではなくてアムロですね。
丁寧な返事、ありがとうございます。
まずは周辺的な事柄から。
■人とナリについて
容姿や地位や性格など、論理と関係ない部分に興味はないということです。総統氏の人格を否定したいわけではなく、その論理だけを相手にするという
ことですね。わしが「わしはセミプロで、わしが書いた文章は金になります」と言ったとしても、論理の本質とは全く関係がないでしょう。そういうこと
です。拡大解釈のしすぎですよ。
■「宣戦布告」について
『覚悟のススメ』というマンガのパロディで、深い意味はありません。総統氏は周辺知識が多いとのことなので通じると思いましたが。
■発表と責任について
オウム返しをした上に問題をズラすことしかできないようでは、この問題について反省したことがないようにお見受けします。本質的な返答ができない
ということですよね。まあ、うちの考え方でよければ披露しておきましょう。
当会のwebサイトには、立ち上げ当初から多くの苦情が寄せられています。様々な立場の人がいるのだから、当然ですね。ただ、人を傷つけることがあろ
うと、我々は我々の作品に自負を持っているから、敢えて発表します。価値観の違う人間が傷つくことは厭いません。というか、むしろ、価値観の違う人
間が傷つくことは当然の前提として作品を発表します。総統氏は、それを「覚悟」という言葉で表現しているようですね。
ただし、「事実」と「法律」の2点に関しては、クレームがついた場合、徹底的に検討した上で、当方が誤っていればその事実を明記し、取り下げま
す。「価値観」については取り下げません。価値観は、そもそも正誤の問題ではないからです。「事実」と「価値観」の間には明確な倫理的境界線が存在
します。事実を枉げ、法律を侵すことは許されません。一方、価値観が異なるのは必然です。……っていう倫理観を持っているかどうかを聞いてみたんで
すけどね。
そういうわけで、わしがこの質問で知りたかったのは、総統氏が「価値観」と「事実」の関係をどう把握しているかです。案の定、総統氏は「事実」と
「価値観」を混同しているようです。確認しておきますと、わしは総統氏と「価値観」は異なりますが、総統氏の価値観を変えようとしたことは一度もあ
りません。むしろ、尊重しているはずです。問題にしたのは、徹底的に「事実」の認識です。
たとえば日テレも、巨人を応援すること(価値観)は許されます。が、巨人を応援するあまり、順位を歪めて報道すること(事実)は許されません。同様に
我々も、眼鏡っ娘を応援することは許されます。が、眼鏡っ娘を応援するあまり、コンタクトレンズの危険性を事実に基づかずに主張することは許されま
せん。
総統氏は、ヒゲオヤジを応援するあまり、眼鏡っ娘の事実を歪めていませんか?ってことですね。まあ、ここまで聞いたところでは、意図的に歪めてい
る自覚はあるらしいですね。ただ、眼鏡っ娘の多様な存在形態について「無知」なことも確かなようです。
■マイノリティについて
>アンチ巨人は存在しても、アンチ広島は存在しません。
アンチ広島に会ったことがないのですか? まだ人生経験が乏しいってことですかね。山口県や島根県など、広島県周辺のアンチ広島傾向については見
ておいた方がいいですよ。日本全体にアンチ巨人が存在するのと同じ構図で、中国地方にはアンチ広島が存在します。同様に中部地方には広範囲にアンチ
中日が存在します。あと、近鉄ファンにも会ったことがなさそうですが、交友範囲が狭くないですか?
その経験の乏しさと関わってくるのでしょうけど、「眼鏡っ娘がメジャー」という事実認識は正しいのですか。眼鏡活動している本人には、そういう実
感がありません。総統氏のやっていることは、単に弱い者イジメに見えます。
デジコと眼鏡っ娘の違いは、「マイナー/メジャー」という二項対立より、「固有名詞/抽象名詞」という二項対立で捉えた方が正確でしょう。おそら
くJAMFの活動は、固有名詞を対象にしては成り立たないということじゃないかと推察します。まあ、実際の活動は、固有名詞にまつわるものが殆どみたい
ですね。せっかく眼鏡っ娘を扱うのなら、それが「抽象名詞」であることに、もうちっと自覚的でもいいような気がします。
期待通り、「人類はそんなエゴだって乗り越えられる」とか「俺は貴様ほど急ぎもしなければ人類に絶望もしちゃいない」とでも言っておくべきなの
か。
それはそうと、総統氏の言うシャアの発想はヨーロッパでは20世紀前半に流行した思想で、21世紀に入った今日ではすでに陳腐になっています。古くさ
いんですよ。このことは前にきちんと指摘したと思いますが。日本に魂を縛られていると、新しい発想だと勘違いしちゃうのかなあ。
あと、シャアというより、シロッコと言った方が正確かもね。
>そのために、私はどんな罪でも被りましょう。その覚悟がJAMFなのです。
まあ、その覚悟があるのなら、何を言っても無駄ですね。って、最初から解っていたことではありますが。
さて、このサイトは複数の眼鏡っ娘ファンから発見されています。複数のルートから報告が入ったところで、わしの目にも触れました。ざっと見た限り
単なるギャグだし、今のところたいした影響力もないようなので放っておいても無害だろうと当初は判断しました。基本的に価値観が違う人とは「棲み分
け」をするしかないですしね。ユーゴスラビアと同じです。影響力が出た時点で角を突き合わせることになるかもしれないとは思いましたので、論理的欠
陥はその時点でチェックしておきましたが。
ただ、そのうち感情的に反発する人が出るようになりました。穏健な眼鏡っ娘ファンだけあって黙っていることにしたようですが、けっこう厭な思いを
したようです。わしとしても今後「棲み分け」を促進していく上で明確にしておくべきポイントがいくつかあるように思いましたので、無粋だと自覚しな
がら、掲示板に書き込んだ次第です。で、「メガネッ娘自体には何の罪もありません」という言質を引き出せたので、おおかたの確認は終了です。このサ
イトを見て傷ついている眼鏡っ娘ファンがいたら、「メガネッ娘自体には何の罪もありません」という総統氏自身の言葉を引用することができますから
ね。
しかし、無粋にならないようにいろいろと気を遣ったつもりだったんですけどね。その努力の名残は最初のほうの書き込みには明瞭に見いだせません
か?
まあ、乗りかかった船ではあるし、言質を引き出すまでにいろいろ余計なことにも言及しているし、ついでだから「事実認識」に問題があることは指摘
しておきますよ。事実認識を誤った「覚悟」は、単に滑稽なドン・キホーテですからね。
わしが見るところ、ゲームの堕落はRPG(可視的パラメータを扱うゲーム)から顕著です。ということは、PC-8001で『ダンジョン』とか『剣と魔法』が存
在する頃から、本質的にダメになることが予定されていたということですかね。それが決定的になったのが日本ファルコムあたりからのように思います。
わしは『イース』でRPGを見限り、それ以来ゲームはパワプロしかやっていません。しかしコナミも堕落し、パワプロは駄ゲームとなりました。サクセスモ
ードが諸悪の根元でしょう。やはり問題の本質は「可視的変動パラメータ」にあるんじゃないですか? そういや、知り合いのゲーム本質主義者は、最近
は「グラ2」と「コラムス」しかやっていないようです(←当然、基盤ね)。
ゲームのおもしろいところは、「自由/法則」の二項対立が止揚される地点にあると思います。「自由/法則」の関係を絶妙に構成したゲームが後に名
作と呼ばれるのでしょう。ゲームの堕落は、この「自由/法則」の関係に対する反省を欠いたときに発生する事態でしょう。「自由/法則」の緊張関係
は、アニメや映画やマンガなど、他のメディアには存在しない特徴ですからね。
わしの観察では、眼鏡っ娘がゲームに登場するようになったのは、ここ4・5年のことに過ぎません。そして、ゲームはそれ以前から堕落しています。
可視的パラメータを利用したアニゲー自体、眼鏡っ娘が登場する前から存在しますからね。つまり、アニゲーと眼鏡っ娘には本質的な関係がないわけで
す。ここ4・5年の動きだけしか知らないと、本質を見誤ります。むしろ、眼鏡っ娘はアニゲーにとっては本質的に異質の存在であって、内側からアニゲ
ーを解体・再構成する存在になるでしょう。
重ね重ね主張するところですが、「メガネッ娘とは、「長嶋茂雄」なのです!」というように問題を擬人的に把握することは、本質から目を逸らすこと
に繋がりやすいでしょう。問題の本質は長嶋茂雄というスケープ・ゴート自体にあるのではなく、彼をスケープ・ゴートに仕立てることが可能な構造とメ
カニズム、もしくは彼をスケープ・ゴートに仕立て上げねばならなかった歴史的状況にあります。日本球界の場合、コミッショナーの権限などを含め、プ
ロ野球機構全体の構成が問題にされるべきですし、歴史的条件としてはサッカーという外圧を考慮に入れねばなりません。感情的にはアンチ巨人のわしと
しても、巨人や長嶋に責任をなすりつけても問題が解決しないことくらい、理性的に理解できます。長嶋が退場しても、代わりはいくらでもいます。巨人
がなくなっても、代わりはいくらでも出てくるでしょう。わしは巨人自体が嫌いなのではなく、今の巨人を巨人たらしめている構造や歴史的状況が問題だ
と思っているわけです。「巨人が嫌いだ!」と叫ぶことは、構造やメカニズムに目を塞ぐことに直結します。世間の愚かなアンチ巨人の連中を見れば、そ
のことは一目瞭然でしょう。巨人が陳腐だとしても、それを単に非難するだけのアンチが同様に陳腐なのは間違いありません。
ゲームにしても、眼鏡っ娘を粗雑に扱うことを可能にした「可視的パラメータ」という仕組のほうに問題があります。実際の歴史を見ても、可視的パラ
メータ→眼鏡っ娘という順序で登場していますしね。総統氏は眼鏡っ娘を攻撃するあまり問題の本質から逸れていっているように見えます。
>それでもあなたは、いつかはアニゲーの粗製乱造がなくなるからとメガネッ娘を擁護するのですか?
眼鏡っ娘が内側からアニゲーを解体したとき、それは既に「アニゲー」と呼ばれる必然性を欠いたものになるでしょう。そしてそのようなクリエイティ
ヴな活動を促進することが、わしの願いであります。
ようやくお互いの話がかみあったような気が。
そうなるとかなりきちっと話をしていく必要性が高くなりますから、易々とレスをするのが大変になるのですけど。
まず、私は漫画はほとんど読みません。今、毎週読んでいるのは「ファミ通」と「週ベ」と「週プロ」
ぐらいだったかな? 「メジャーリーグ」は月刊か。
なので漫画の元ネタを振られても実はほとんどわかりません。
ではゲームを振られたらわかるのかというと…実は前に宣言した通り、「プレステ絶ち」をしています。
となると、ほとんどゲームの情報が入ってこないのです。ファミ通も新作情報しかチェックしないので、
アニゲーの情報がほとんど入ってこない。だからJAMFのかつての活動が休止したのはネタがないからです。
嫌いなものを積極的に調べるほど悪意的なことはできないし、そういう情報が入ってこないことに、
私は実に精神的な安定をもたらしてくれるので無理には調べていません。
それでも2年前はアニメを見もしないのにニュータイプを買っていたんですけど、それもやめてしまいましたね。
ただ、私はゲームハードの崩壊を何度もまのあたりにしてきました。
PCエンジン、セガサターン…この二つに関してはアニゲーによって滅亡したと言っても過言ではありません。
無論、それ以外にもセターンはセガ自身の不手際もありますが、ゲーマー魂に書いた通りセターンはやはり、
「サクラ大戦」の発売が大きな転機となったのは重要な要素であるでしょう。
サクラのヒロインも典型的なキャラわけがされてますね…メガネッ娘も無論いました。
そのようなゲーム業界自体の衰退を止めるには、私はやはりアニゲーの撲滅は不可欠だと思います。
その為の方策の一つとして、JAMFは充分有効な手段であると思っています。
ただ、ゲームがイースあたりで終わっている。と言われてしまうと…というか、それを前提で話を
されてしまうと返す言葉がない。というのが正直なとこです。
(…討論でこんな負けを認める発言をしていいのだろうか?)
ゲームがもう終わっているのか?と言うことについて論争するのは取り敢えずおいておいて、
(だって僕、WIZが出たときまだ生まれてないし。ファミコン世代なのにその前のゲームから
終わっていると言われても、本当に返す言葉がないです)
私もゲームに無限の可能性や発展があるとは思っていませんが、「己を極める」ものがゲームだとすれば、
例え目新しくなくともゲームは出す価値があるのではないかと思います。
あなたは何度か論理が古い。という話をされますが、古いから悪い。というのは絶対ではないと思います(間違いでもないけど)
ゲーマーの辞書には「枯れた技術の水平思想」という言葉があります。
例えばPS2やらキューブやらXboxが出ても1番売れるのはGBかもしれない。
それは確かにある意味では終わっているかもしれません。
でも、野球のルールが(基本的に)かわらない様に、ゲームも高技術競争の末にようやくそういった流れになっているのだと思います。
だから、私はゲームはまだ終わってはいないと思います。
…ちなみにパワプロの場合、私はサクセスはまったくやりません。確かにつまらんもんね。
…先にちょっとレスっておくか。
>アンチ広島
そりゃまあ、いないってことはないでしょう。といったら卑怯ですか?
でも、アンチ広島がいるかいないかって話はこの流れの中では余り関係がない気もしますがね。
アンチ巨人を引き合いに出したのは、メガネッ娘を倒してこそのゲームの解放だ、というだけで。
野球でも広島を倒しても野球界が変わるわけではない。ということです。
強気をくじき弱きを助け。なんていったらまた古臭いと言われてしまうのでしょうか?
ただメガネッ娘はメジャーだと思いますよ。
実は最初をはJAMFは隠しコンテンツにしてました(更新履歴を見れば事実だとわかるはず)
理由はあなたが言う通り、傷つく人もいるだろうから、という理由です。
でもパンピーからかなり反響がありましたし、隠しにしておくのはもったいないという意見も多く貰いました。
これほどメガネッ娘が認知されているのであれば、表に出しても問題ないと判断しました。
ああ、あと、大学の友人の一人にメガネッ娘大好き人間がいてかなり傷つけました(笑)
今もこの論争を見て「不毛だ」と心を痛めていらっしゃいましたね。
う〜んと…私は10年ほど前PC-Eユーザーで多くのメガネッ娘がいた…とかは些細なことだから別にいいか。
何年前からメガネッ娘がいようがJAMFには関係ないですからね。
メガネッ娘はメジャーだと思う。に関連して言えば、メガネッ娘は固有名詞でもあると思います。
詳しく言えば、固有名詞的な使い方をしても問題ない言葉だと思います。
>その努力の名残は最初のほうの書き込みには明瞭に見いだせませんか?
少なくとも、「あなたのひととなりには興味がない」という一言には傷つきました。
ただ、書き込みをされたこと自体はなんと言うか…うれしかったわけではありませんが、
嫌だったわけでもありません。今回のレスが全体的に丁寧でまじめなのはあなたのレスが礼儀を尽くしているからです。
正直に言わせてもらえば「あなたのひととなり〜」発言以降のレスはしばらく憤っておりました。
さて、ようやく長嶋茂雄の話ですね。
私も自分の分で「長嶋茂雄」には罪がない。といっています。
今の野球界の問題が、「長嶋茂雄」だけでないのも事実でしょうし、彼がいたままでも改革は可能でしょう。
でも、私はやはり「長嶋茂雄」は退場すべきだと思います。それだけ彼の存在が大きいわけですから、
またそのぐらいの荒療治をしていかないと本当に滅びると思います。
だって今の首脳陣はアテネ五輪やワールドカップの監督を長嶋にするといってる連中しかおらんのですよ?
そんなの王の方が適任に決まってるだろう!
そんな連中は粛清するしかないし、やはり長島は退場すべきです。
(で、オリンピックなんか終わっていると言われると、ゲームがもう終わっていると同じく返す言葉がなくなるのですがね)
メガネッ娘もやはりゲームから退場してほしいです。
本質がどうの、とか、事実問題とかではなく、キャラゲー廃止と言う結果が欲しいです。
それこそ、今すぐ愚民どもに叡智を与えてゲームを救ってみせてほしい。
そうなればJAMFは役割を失うでしょう。
でも、大衆をコントロールできないということはあなたが昔書き込みましたね。
なら私はアニゲーを滅ぼす為にJAMFの看板を掲げねばならないのです。
メガネッ娘の存在は、余りにも大きすぎます。最初は漫画からでしょうが、アニメ・ゲームと次々に侵食していきました。
ゲームを足場にする私は、当然メガネッ娘は排斥するのが自然ですし、漫画を足場にする(と推察される)あなたは、
進出はよろこばしい事で、ただ粗製濫造を愁いています。
無論、ゲームが完全にメガネッ娘に侵食される可能性もあるでしょう。というかその可能性の方が大きい。
つまりアニゲーがゲームという言葉になることです。
それが素晴らしきメガネッ娘によってなされれば、あなた方はさぞうれしいでしょう。
しかし、我々ゲーマーはそれでは困るのです。それでもいいというゲーマーは、もうゲームをあきらめています。
時代の流れに(アニゲー)に逆らうことは、確かにドンキホーテかもしれません。
でも、ならばこそ、私はゲームとともに殉じたいのです。
私がキャラクター攻撃を始めた頃、当時の親友(ゲーマー)が私に
「そんなこといったって、プレステしかゲーム機がなくなる可能性の方が高いぜ?
そしたらプレステ買うだろ?」といったので
「いや、その時は俺はゲームを辞める時だ」といったらその親友は
「そうか…中途半端な気持ちだったらやめとけというつもりだったが、
その覚悟を決めているのなら俺からは何も言うことはない。」といわれました。
この「覚悟」は、立場は違うけれどゲームにおける安易なキャラクターに心を痛めていらっしゃるあなたなら、
わかってもらえるとは思いますが。
しかし、そのキャラクター文化というものの一端をメガネッ娘が担っているのも、また事実であります。
最後に関係ないことですが。
私はあなたに何度かメガネッ娘のどのようなところが嫌いかと質問を受けてまいりました。
が、意図的に答えてまいりませんでした。
実はJAMFのページにもその点についてはまったく触れられていません。
理由はただ一つ。余りにも他者(つまり貴方方)を傷つける恐れがあるからです。
あなたの書き込みが会った後、私の日記などで登場するBBBに
「そういえばどういうとこが嫌いなの?」といわれたので「誰にも言うなよ」と言って教えたら
「…それはきつすぎる。絶対に言ってはならない」と言われています。
それこそ前述した大学のメガネッ娘ファンの友人と絶縁せざるを得ないようなことなので御容赦ください。
「メガネッ娘には何の罪もない」。これは今後も取り消すことはありません。
「私は本当にメガネっ娘が大嫌いだ」 これも揺るぎない事実です。
「今、ゲームを侵食しているアニゲーにメガネッ娘が少なからず影響している」
これは私の意見でもはいぼく様の意見の中でも出てきていますね。そして…
「キャラゲーを絶滅させるのに、キャラクターの中で私が最も嫌いなメガネッ娘にターゲットを絞った」
これがJAMFの設立の動機です。やみくもに攻撃するのはそれこそ滑稽でありましょう。
そりゃまあ、私がもっと優秀であれば全てのキャラクターのアンチを作るのが道理だとも思います。
そう言う意味ではメガネッ娘はかわいそうではあります。
私もいつまで経ってもメガネッ娘の存在をどうしても許せない心の狭い人間ですから。
抹殺する。とは一度も言っていないはず。ともかく早くゲームからででってくれ!
アニメと漫画だけなら文句は言わんからさ…私の心の中に秘めておけばいいのだから。
「眼鏡っ娘には何の罪もないが、ゲームのために消えてもらう」というJAMFの趣旨は理解しました。これに対しては、繰り返しになりますが、反論が2点あることを確認しておきます。
(1)眼鏡っ娘が消えても、ゲームは復活しない。
ゲームが堕落した原因は、眼鏡っ娘と何の関係もありません。攻撃する相手を間違えているのではないか? 歴史を振り返ってみれば、坂本龍馬を暗殺しても幕府の権威は復活しませんでした。まあ、「全てのキャラクターのアンチ」に言及している以上、このことも自覚しているでしょうけど。
(2)眼鏡っ娘は、逞しい。
「どっこい、みんな生きている」でも「頼まれなくても生きてやる」でもいいですが、眼鏡っ娘は現に存在し、多様な形態で生きています。アニゲーの消滅を願うなら、眼鏡っ娘に消えてもらうより、内側からアニゲーを解体する特異点として眼鏡っ娘を応援する方が効果的でしょう。幕府における勝海舟のような存在とでも言えましょう。
まあ、しつこく書き込んだし、こちらの言いたいことも理解されていると思います。それでも活動を続ける覚悟らしいので、公共性の高いところで会ったときはガチンコになるでしょうが、平時は棲み分けをするのが最も好ましいのでしょう。
あとは、雑談。
・古さについて
単に「古いから悪い」というのではなく、それを乗り越えようとした先人の営為を参照せず、「悲劇を繰り返す」のが問題となります。シャアの場合、古いこと自体が問題なのではなく、ギレンやシロッコの過ちから何を学び何を克服したのかが見えないことに問題があります。そしておそらく古さを克服できなかったために、ピエロとして自殺を演出することしかできなかったのでしょう。
・むかしばなし
かつて、ゲームは作るものでした。自作しないにしても、プログラムを打ち込むという作業は必要でした。限られた法則から無限の自由を引き出すという創造的な試みは、一般庶民も参加して日常的に行われていました。わしの作ったゲームも『ベーマガ』などに掲載されました。楽しい思い出です(←自慢)。
が、いつしかゲームは買うものとなりました。ゲーム市場はいつしか拡大し、ゲームは会社が作るものとなります。ゲーム制作には膨大な資本が必要となり、一般庶民には手の届かないものとなります。一般庶民は、ゲームを「消費」することしかできなくなり、創造的な営為に参加することができなくなります。ゲームの可能性は、ここでいったん切れているように思います。一時的に「テトリス」が革命を起こしかけたこともありますが、資本主義の大波をせき止めるには至りませんでした。わしの場合、この時点で、自ら創造的活動に携わることが可能なマンガというメディアを意図的に選択しました。幸運にも眼鏡っ娘と出会い、今に至ります。
今のゲームは、自分が生産に立ち会えないという点で、アニゲーだろうがそうじゃなかろうが、わしにとってはただの消費財です。マンガも、他人の描いたものを読むときは、単に消費財です。本質的にコンビニ弁当と同じです。ただ、作品に眼鏡っ娘が登場したときは、そこを拠点にその作品全体を構成し直すという「生産活動」へと切り替えることができます。眼鏡っ娘は、わしにとっては生産活動、つまり生の営みへの拠点となります。それを「愛」と呼ぶ人もいるようですが、ちょっと違うような気もします。
JAMFにしろ当会にしろ、活動が説得力を持つかどうかは、それがどのように単なる消費を超え、どのように生産活動へ結びつくのかにかかってくるのでしょう。