待ち逢わせ
written by 神代 祐介   
 かろるがそれを受け取ったのは、休日の朝早くだった。
「…こんな荷物、心当たりないんですけど」
 かろるがそう言うと、郵便局の配達員は頭をかいた。
「そう言われてもね…とにかくこっちは、届けるのが仕事でして。確かに住所はここなんだから、受け取ってくださいよ。その後は、どうしようとあなたの勝手なんですから」
 かろるは肩をすくめると、ペンを取ってサインをした。
「どうも。これで、うちの局も肩の荷が下りた」
 かろるは配達員の笑顔の前で、ばたんとドアを閉めた。
 
 四角い荷物が残った。かろるはダイニングのテーブルにそれを放り出して、かじりかけのトーストに戻った。
 かろるがいるのは、広々としたダイニングの中。大きなテーブルの上に、ぽつんと一枚だけ皿が乗っている。かろるはその前で、にこりともせずに朝食をとっていた。
 食事が済むと、かろるは皿を流しに放りこんだ。プログラムが反応し食器洗浄機のスイッチが入って、汚れを落としていく。
 かろるは無造作にパジャマを脱ぎ素裸になると、バスルームに向かった。
 シャワーを浴びる。髪を洗いシャンプーを落としたあとで、かろるは舌打ちをした。トリートメントが切れている。
 洗面所で身体にタオルを巻く前に、かろるは鏡をじっと見つめた。
 手をそろそろと上げていくと、鏡の中の少女が、ゆっくりと手を首にむかってのばしていく。
 両手でしっかり首をつかんで、しばらく少女はじっとしていた。かろるは大きくため息をつくと、手を放し洗面所を出た。
 ダイニングに、さっきのまま包みが放ってある。
 かろるは裸のまま椅子に座って、包みをじっと見た。
「…なんだっての?」
 かろるは吐き捨てるようにつぶやいた。
 包みは茶色の紙だ。差出人の記載はない。
 かろるは手を伸ばして荷物を取ると、紙くずで一杯のゴミ箱へ入れた。

 ドアチャイムが鳴る。
 かろるは緩慢に立ちあがって、壁のモニターを見た。
 その人影を確認すると、乱暴にボタンを叩いてかろるは言った。
「何しに来たの? 呼んでないよ」
 太一は頬に刺青を入れていた。唇だけで薄く笑いながら、言う。
『今日学校休みだろ。付き合えよ』
「今日、忙しいんだよ」
『俺と会うより大事なことなんかあんのかよ?』
 かろるは言った。
「…なんか最近あんた、あたしの彼氏みたいな口きくね」
『あれ、違ったっけ』
 太一が笑う。
「あたしバカは嫌いなの」
 かろるは言った。
「帰ってよ。もう来ないで」
『いいのかよ? お前ぐらいの女なんて、そのへんに…』
「じゃあ、その子と遊べば」
 かろるは、通話を切った。モニターにはまだ太一が映っている。逆上して何かまくし立てているが、何も聞こえてこない。
 そのうち、鉄のドアががんがんと鳴り始めた。モニターを見ると、太一が盛んに拳を振り上げている。
 かろるは唇をゆがめて、通話機のそばの赤いボタンを押した。
『はい警察です』
「うちの前にバカが一匹いるの。捕まえて」
『は? しかし…』
「ドアが壊されそうなのよ」
 モニターの中でオペレーターが頷いて、通話が切れた。
 五分で警察が来た。ちょうど太一は庭のレンガを振りかざしているところだった。
 抵抗しながらひきずられていく太一をモニターごしに見ながら、かろるはため息をついた。
 ダイニングに戻る。
 ゴミ箱に突っ込んであった荷物を見つめる。
 しばらくして、かろるはくしゃみをした。
 一つ身震いしてから、かろるは荷物を拾い上げ、自分の部屋へ向かった。

 下着をつけ、Tシャツとジーンズを着てから、ベッドの上に荷物を投げ出す。かろるはベッドの上であぐらをかいて、荷物を抱え込んだ。
 包み紙は茶色だったが、元は白かったようだ。長い年月のうちに変色したらしい。かろるはぱりぱりと崩れる包みをはいで、ゴミ箱に入れた。
 出てきたのは、金属製の銀色の直方体だった。
「…?」
 叩くと、わずかにうつろな音がする。大きな長方形の部分を上にして、かろるは指を這わせてみた。
「お」
 みぞがある。上はフタになっているのだろう。
 かろるは指をくいこませ、意外な抵抗にあった。
「くっ…。くくくっ…」
 かろるの顔が赤く染まり、指がぶるぶると震える。
 がちゃんと音をたてて、箱がベッドの上に戻った。
「そっか、油注せばいいんだ」

 かろるはダイニングに戻って箱を抱えていた。
 隙間に油を吹き付けると、すうっとフタが外れた。ほこり臭い空気が、かろるの顔に吹き付けられてきた。
「ごほっ、こほっ、けふっ」
 手を顔の前で大きくあおぐ。咳がおさまったところで、かろるは箱の中を覗きこんだ。
「!」
 かろるは、目を大きく見開いた。
 太陽の光が反射して、かろるの顔を照らす。中で輝いているのは、黄金色のコインだった。
 五枚入っている。他には紙製の分厚い本が一冊、それに、古めかしい光ディスクが一枚。その下にはプラスチック製の箱型のもの。
 かろるはコインを一枚手に取り、口の前に持ってきてしばらく見つめたあと、かじってみるのをやめた。
 本を手にとってみる。かろるは何度もひっくり返して、じっくりとそれを眺めた。
「…広い、辞の…これなんて読むんだろ」
 かろるは一度その本を置くと、ゴミ箱の中の包み紙を引きずり出した。郵便局に預けられた日時を探す。
 受け取り年月日は、『平成二十年八月十五日』だった。
 かろるは机にとんでいって、作りつけのパネルに言った。
「コンピュータ、『平成二十年』は今から何年前?」
 パネルのスピーカが女性の声で言う。
『西暦では二OO八年、今から二百三年前です』
 かろるは低く口笛を吹いた。
「それはそれは」
 包み紙をそっと机においてから、かろるは荷物に戻った。
 本はあまりに分厚いので後回しにして、かろるはディスクを手に取った。試みに机のリーダーにかけてみたが、エラーが出た。
『このタイプのディスクはサポートしておりません』
 コンピュータが言う。かろるは二階の父の書斎へ、階段を駆けていった。
『このタイプのディスクはサポートしておりません』
 父のコンピュータも返事は同じだった。
 かろるは舌打ちした。
「じゃ、何なら読めるの?」
『このタイプの光磁気ディスク、通称『MО』に対応した最後の製品はソニー・ミレニアム製のYA―900ドライブです。発売年月日は二O一八年三月七日』
「その製品の外観を表示」
 かろるは、コンピュータが表示した、二十一世紀の古典的電子機器に見入った。
 ばたばたと階段を駆け下りる音が響く。
 かろるはダイニングに入って、荷物の中を見た。
 ディスクの下に収まっていた黒いプラスチック製品のデザインは、コンピュータが示した過去の製品とよく似ていた。
 かろるはその、ずっしりとした薄い板を取り出した。
『待機中です』
 かろるは言った。
「電源カット」
 コンピュータは、静かになった。
「こういうのは自分で解くから楽しいんだよね…」
 かろるは、その板を持ち上げて四方から眺めた。
 横に一ヶ所、パクパクと開閉する狭い隙間がある。かろるがディスクを押し込んでみると、かちりと音がして、きっちりと隙間が埋まった。かろるの唇に笑みがうかんだ。
「ディスクの内容を…」
 言いかけて、かろるはやめた。
 もう一度板を撫でまわす。
 ある辺の端に、一つずつスライド式のボタンがついている。
 右を押してみた。
 首をかしげて、左を押してみた。
 ため息をついて同時に押してみた。
 薄い板がぱくっと口を開けて、身体の内側をさらけ出した。かろるの笑みは、さっきより大きかった。
 ドアのちょうつがいのように板が開いた。持ちあがったほうには黒いスクリーンが、下はびっしりと同色のキーボードが埋めている。
 右上に、一つだけ色違いの、青く丸いボタンがあった。
 かろるは片眉を上げて、そのボタンを押した。
 画面が一瞬、白く光った。
 かろるは瞬きをした。その瞬間に、もう画面はもとの黒に戻っていた。
「そっか…パワー切れ…」
 かろるは、つまらなそうにキーボードをはらった。
「でも、二百年後に一瞬光っただけでもたいしたもんだ」

 旧式のコンセントは、かろるの家のものとは相性がよくなかった。 かろるがその電源をコンセントについだときは、一時間が経っていた。
 電源スイッチを入れると、画面に光が戻ってきた。かろるの頬はあかあかと紅潮していた。
 ディスクドライブを探して、かろるはボタンを押した。

 黒い画面が白く光って、若い男の顔になった。
『えっと…こんにちは』
 かろるは舌なめずりをして、古いコンピュータを膝の上に抱え込んだ。
『突然こんな荷物が届いて、随分驚いてるんじゃないかと思います。
どうもすみません…でも、他にいい方法を思いつかなくて』
 男の年齢は、二十代前半といったところ。顔の線は細く、肌の色は白っぽい。金具でつながった二枚のガラスの向こうから、微笑んだ瞳がかろるを見ている。
 男はさらさらの髪を一度かき上げてから、言った。
『僕は、進藤ユウヤっていいます。…もう気付いてらっしゃると思うんですけど、これは、二十一世紀に録画したものです』
 かろるはユウヤの顔をじっと眺めた。
 ユウヤはそれだけ言って、何かためらうように口を閉ざしている。
 かろるの指が早送りのボタンにのびたとき、ユウヤは言った。
『助けてほしいんです、深沢かろるさん』
 かろるの頬が紅潮した。
 浅く激しく息をつきながら、かろるは後ろを振り返り、しばらくあたりを見まわした。肩を縮めながら、ゆっくりと画面に目を戻す。
 ユウヤは深呼吸していた。
『状況を説明します。落ち着いて聞いてくだ』
 かろるは震える指で、コンピュータのスイッチを切った。

 台所にかけていって、かろるは棚のパネルに言った。
「オレンジジュース。半リットル」
 ジョッキと、その中にジュースが棚の上に現れる。
 かろるは一息に全部を飲み干してから、胸の動悸がおさまるのを待った。
 かろるはクラッカーも呼び出した。せわしげな歯の音がキッチンに響く。
 飲みかけのオレンジジュースを抱えたまま、かろるはダイニングに戻った。
 テーブルの上に、再びユウヤの顔が現れる。挨拶を繰り返される前に、かろるはメッセージを早送りした。
『…落ち着いて聞いてください。
 僕は、ある大学で研究室の助手をしています。物理学の…時空に関するものを開発しているところです。それを、僕達はタイム・ミラーって呼んでます』
 かろるは生唾を飲み込んだ。
『勝手なことをして申し訳ないと思ってます。開発を始めてもう五年になるんですが、昨日、実験中のタイム・ミラーの焦点を、ようやくあなたの家のダイニングにあわせられたんです。…機器の調整が不充分で、時間軸はともかく、空間軸をずらすと画像そのものが消えてしまうかもしれない。だから、あなたに協力してほしいんです』
 かろるは顔をしかめた。
「あたしを…覗き見してるわけ?」
 ユウヤが頭をかく。
『さっき言ったように、空間軸をずらすわけにはいかないので…。
あなたのプライバシーには干渉しないようできるだけ努力してます。
今見えているのは、あなたがいつも座っている席と、テーブルの上が少し。そこで郵便物のチェックをしてましたよね? お名前と住所は、それで知りました。…ちなみに、タイム・ミラーを覗いてるのは僕だけです。若者の方が話が通じやすいだろうって、先生や皆がそう言うんです』
「……」
 かろるは、頬をふくらませた。その頬が多少赤い。
『タイム・ミラーの開発は、現在では異端視されています。だから、
これの完成を証明するには強力な証拠がいるんです…』
「証拠ったってどーすんのよ」
『そして放射性同位体を使えば、証明できます。ある一定の時間に、一定の割合で別の物質に変わっていく、そういう物質があるんです。その一定の時間を、半減期っていうんですけど』
 ユウヤは、片手で銀色の箱を取り上げてみせた。
『これは横のメーターで、中の同位体がどれだけ崩壊したか示してくれるものです。原子レベルの天然の時計ですよ。…絶対にごまかしのきかない証拠を、懐疑的な連中に突き付けてやりたいんです。
 わずかですけど、放射線を出します…ただそれは微々たるもので、人体に害を与えるほどじゃありません。それに鉛でカバーしましたから、外に漏れる心配もありません』
 箱の横には縦長のメーターがついている。今は全て青い色をしていた。
 ユウヤは顔をこわばらせたまま、かなり無理に見える笑みを浮かべた。
『自分勝手ですよね、こんなの。わかってるんです。だけど、あなたに頼むしかないから…どうかお願いします。僕を…僕らを、助けて下さい。これは大発明なんです』
 かろるはじっと、ユウヤの顔を見つめていた。
 
 かろるはダイニングのいつも使っている椅子に座って、神経質に髪を撫で付けていた。服も着替えている。胸が大きくあいていて、少し前かがみになった姿勢のせいで谷間が深く強調されて見える。
「え…えっと。進藤さん、聞こえますか?」
 かろるは顔を真っ赤にして、誰もいない正面の席に手を振った。
「ほんとに、ここに話せばあなたに届くんですか?」
 かろるはもう一度玄関を見た。鍵はしっかりかかっている。
「最初はホント、驚きました。ふるーいビデオの中の人に名前呼ばれるなんて、たたられてるのかと思っちゃった。だけどなんだか、あなたの顔がすごく一生懸命だったから」
 かろるは微笑した。
「あたしにできることなら、手伝いますよ。あなたの説明がちゃんとわかってるのか…自分でも自信ないけど。何かのためにあれだけ熱中できるって、素敵だと思うし」
 あごのところに人差し指をあてる。
「そうだ、一緒に入ってた…本とか…金貨とか。なんなんだろ。あたしへのプレゼントなんですか?」
 そこでかろるは、心なしか目線を落とした。
「…よかったら答えてください。それじゃ」
 かろるは席を立って、ダイニングを出た。
 ソファーの上に身体を投げ出し、胸の中の空気を一気に吐き出す。
「ふうーっ、緊張したぁ」
 かろるは頬に両手をあて、しばらくじっとしていた。
 また立ちあがって、キッチンへ行く。
 水をボトルから直接咽に流し込んでいると、チャイムが鳴った。
 モニターを見ると、さっきも来た郵便局の配達員だった。
「はい?」
「お届けものです」
 かろるは玄関へ飛んでいった。
 ドアを開けると、配達員は抑揚のない声で言った。
「サインを」
 渡されたのは、最初のものとそっくりな二つめの荷物だった。
「一度に届けさせてくれれば、随分楽だったんですがね。時間の指定が…」
 かろるは配達員を放っておいて、ドアを閉めた。
 荷物には、今度は差出人の名が書かれてあった。進藤ユウヤの字の上に、かろるは軽く唇をあてた。

 ダイニングで箱に油をさし、荷物を解く。
 荷物の中に、先程の録画に出てきた銀色の箱があった。横のメーターを見ると、青い部分がかなり下にさがって、赤い部分が占める割合が大きくなっている。横についている目盛りは、録画ではよく見えなかったが、0年から五百四十年までを示している。赤い部分は、ほぼ二百年を示すあたりまで降りてきていた。その目盛りの横に、アルファベットでユウヤのサインがある。
 他に入っていたのは、ディスクが一枚。かろるはそれを取り出して、そっとテーブルの上に置いた。
 本がまた入っている。今度は三冊あった。ただし最初のものよりやや小さく、かなり薄い。二冊はO・ヘンリーの短編集で、もう一冊はロバート・A・ハインラインの『夏への扉』だった。かろるはどちらの作家も知らない。
 今回、コインはなかった。かろるはユウヤのコンピュータをテーブルにすえてディスクを入れ替え、画面に見入った。
『最初にお礼を言います。本当にありがとうございます』
 ユウヤは幸福そうに笑っていた。最初の録画より、顔がほんのり赤っぽい。
『怒られるか、最悪無視されても仕方がないと思ってたんです。心から感謝します。僕にできることがあったら…といっても、あなたはまだ生まれてないんですね』
 ユウヤは頭をかいた。かろるはくすくすと笑った。
『今度は、僕の好きな本を数冊送らせてもらいました。古くなって読めるかわからないので、ディスクの中にもコピーしてあります。
…それから、最初に送ったのは『広辞苑』という辞書です。二百年前とでは、言葉も違うと思ったんですが…あなたの様子を見る限りでは、そうでもないみたいですね』
 ユウヤが唾を飲みこむ。かろるは両手を組み、その上にあごを乗せた姿勢で、じっくりとユウヤの顔を見つめた。
『コインは、純金製です。…何かお礼はしなくちゃいけませんし。なんだかお金で決着をつけるみたいで嫌だったから…説明はしませんでした。受け取ってもらえますか?』
 かろるは視線を据えたまま、ちょっと口をとがらせた。
『距離が…』
 ユウヤは言いかけて、訂正した。
『時間が、遠すぎますから。お礼の形も、どうしても限られてしまうんです。ごめんなさい』
「別に、あやまらなくてもいいのに…」
 甘えた声でかろるは言った。
 そのビデオの指示通り、かろるは自分がユウヤのメッセージを受け取った経緯、放射線同位体の入った装置のメーターについて説明した。
 かろるはその最後に、出来る限りの笑顔で言った。
「友達になってよ、進藤さん。二百年前の人ととなんて、なかなか知り合えないもんね。…あなただって、二百年後の女の子と付き合うチャンスはめったにないでしょ?」
 言ってからかろるは、立ちあがった。
「それじゃ。絶対また連絡してね」
 唇をとがらしながらダイニングを出る。
「…返事がくるまで待たなきゃいけないのが、じれったいよなぁ」

 かろるが翌日、ユウヤのパソコンでО・ヘンリーを読んでいたとき、三度目の荷物が届いた。配達員はかろるを疑わしげに見つめてから帰っていった。
『名授業でした』
 ディスクを再生すると、いきなりユウヤが言った。
『物理学会は大騒ぎですよ。してやったりだ』
 彼はイタズラ好きの少年のようにくすくすと笑った。つられてかろるも笑みをこぼした。
 ユウヤはひとしきり、学会に巻き起こった旋風のことを語った。
『ほとんどの人は信じなかったみたいだけど、そのうち認めざるを得なくなりますよ。かろるさんの示してくれた証拠もあるし、タイム・ミラーは実際に稼動してるんだから』
 誇らしげな解説をそう締めくくると、ユウヤは居住まいを正した。
『それから一つ、いいアイディアがあるんです。お互いのことを、もっとよく知るために』
 かろるは身を乗り出した。
『この荷物が届く時間は、僕が指定します。今その時間を、タイム・ミラーで見ているところです…そして、その僕をビデオで撮影しています。タイム・ミラー越しに、既に録画された僕を見て話すあなたを見れば、会話ができます…ええと…』
 かろるは眉をひそめた。
「なに言ってんの?」
『簡単に言えば、ダイニングにこのコンピュータを持っていけば、リアルタイムで会話ができるってことです』
「ホントに? なんか…ヘンだけどまあいいや、試そう」
 その言葉通りかろるは、ダイニングにコンピュータを運んだ。
 テーブルの上に荷物を置いて、かろるは言った。
「さ、これでいいの?」
 画面の中でユウヤが眉をひそめた。
『真っ暗になった。おかしいな…』
 沈黙。かろるは途方にくれた表情を浮かべた。
 ユウヤが、拳を掌に打ちつけて叫んだ。
『そうか、コンピュータの後ろが見えてるんだ。かろるさん、もう少し後ろにずらして』
「う、うん」
 かろるは、言われた通りにした。
「さ、これでどう?」
 ユウヤが頷いて、言った。
『よく見えます』
 かろるは、眉を寄せて不審そうに言った。
「ほんとに話せるの? あたしの髪の色は?」
『茶色です』
 かろるは、びくりと身を引いた。
 一瞬強張った顔が、ゆっくりと微笑に溶けていった。
「…こんにちは、ユウヤさん」
『こんにちは』
 ユウヤが笑った。
『これで、僕らは二百年の時を打ち負かしたわけだ』
 かろるは小さく、くすりと笑った。
「そうだね」

「いつもいつも、一体この荷物はなんなんです?」
 配達員がかろるのサインを待ちながら言う。かろるはいたずらっぽく笑っただけで、答えなかった。
 配達員は肩をすくめた。
「二百年まえから預かってる荷物は、いつもそれが最後のはずなんです。だけど配達して郵便局に戻ると、また別の荷物が明日の配達を倉庫で待ってる。それまでどこを探してもみつからなかったのに。
理由を教えてもらえませんか?」
「あたしにも、よくわかんないんだよ」
 かろるは笑いながら、サインした伝票を配達員に渡した。

『じゃ、ずっと一人暮らし?』
 かろるは髪をいじりながら言った。
「そうだよ。パパは人類学者で、学会とかでいつも忙しいし。今は月に行ってるよ…ママは、ずっと前に死んじゃったから」
『…それじゃ寂しいだろ?』
 かろるは目をそらして、小さく笑った。
「ユウヤさん、さっきからあたしのことばっか聞いてる」
 ユウヤが赤くなった。
『…ダメかい?』
「二十三世紀よりもあたしに興味があるんじゃ、研究にならないんじゃないの? あたしはかまわないけど」
 ユウヤは一つ咳払いした。
『最近研究が立ち往生してるんだ』
「そりゃまたどーして」
『歴史が変わっちゃうだろ? タイム・ミラーを使うと。その問題をめぐって、チームの中で意見が割れてるのさ。研究をこのまま続けるのか、凍結するのか』
 かろるは、ぴっとユウヤを指差した。
「過去ならもう、変わってるじゃない」
 ユウヤがじっと、かろるを見つめた。かろるは少し赤くなった。
「…なに?」
『いや…何でもないよ』
 かろるは、テーブルの上に両肘をついた。
「ユウヤさん、あたしに何か…できることある?」
 ユウヤは目を伏せて、笑った。
『君と一緒に、ランチを食べたいな』
「ここで?」
『いや。こんな画面越しにじゃなくて、同じテーブルに座って。きれいな店を知ってるんだ…そこで、君と一緒に。好きな音楽を聞きながら、あったかい陽射しを浴びながら』
 かろるはユウヤを見たまま、身を縮こませた。
『…かろるさん?』
 かろるはさっと振り向くと、がたりと椅子を鳴らして立ちあがった。
「ご、ごめん、ちょっと待ってて」
『う…うん』
 かろるは、洗面所に駆けこんだ。片手で覆った瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。
 かろるは深呼吸をして胸を落ち着かせ、水を出してばしゃばしゃと顔を洗った。
「…ランチに誘われただけじゃない」
 かろるは鏡を見つめ、真っ赤な目の少女に向かって言った。
「あなた、どうして泣いてるの?」

 二週間後。
 ドアチャイムが鳴ると、かろるは玄関に駆けていく。
「はいはいはーい」
 ドアを開けると、そこにいたのは、いつもの配達員ではなかった。
「…パパ!」
 深沢慎太郎がトランクを持って、立っていた。
「やあ、かろる。ただいま」
 慎太郎は笑顔を見せると、軽く家の中を指差した。
「入ってもいいかな?」
 玄関に立ちふさがっていたかろるは、慌てて身体を引いた。
「ありがとう。向こうで秋物のコレクションをやっててね。ドレスを一着買ってきた。月生まれの新鋭の作品だ」
「あ」
 かろるは、大きな箱を持たされた。
「…あ、あの、ありがと。パパ」
「わたしにごまかしていなければ、サイズは合うはずだ」
「パパにごまかしてもしょーがないよ」
 かろるは手を伸ばして、父のトランクをもぎ取った。
「部屋まで運んだげる」
 父の前に立って、かろるは階段を上がり始めた。
「それはそれは。チップはないぞ」
「地球の重力下じゃ、そのおなかで精一杯でしょ?」
「月の食事は、誰かさんのそれより旨くてね」
「合成の食事がそんなにいいなら、いくらでもどうぞ」
 そのときまた、ドアチャイムが鳴った。
 かろるは弾かれたように振り向いた。父とまともに目が合った。
「あ…あの。誰か来た」
 慎太郎は首をかしげた。
「そのようだね」
「あたし出る」
「そんなに出たければ譲ってあげよう」
 かろるは、階段を駆け下りた。

 慎太郎は、戻ってきたかろるの腕の中に目をとめた。
「その荷物は? 随分時代がかってるな」
「えーと…」
 かろるはしばらく考えてから、言った。
「見せたげるよ。ちょっと待ってて」
 かろるは荷物を解くと、リビングにおいてあるコンピュータをダイニングに運んだ。席についたかろるに、後ろから慎太郎が言う。
「これはまた…博物館にありそうなコンピュータだな」
「バカにするなかれ。ちゃんと動くんだから」
 かろるはディスクを押し込んで、電源を入れた。
 ユウヤの横顔が映った。慎太郎が唸った。
「男か」
 かろるは無視して、言った。
「ユウヤさんっ。ディスク、着いたよ」
 ユウヤが振り向く。かろるを見ると、笑顔で彼は言った。
『かろるさん。いい知らせがあるんだ』
「あ…ちょっと待って。紹介したい人がいるの」
 かろるは振りかえって父を見た。
「あたしのお父さん。パパ、こちら進藤ユウヤさん」
『あ…は、初めまして』
「深沢慎太郎です。こんにちはユウヤくん…どうやら娘がずいぶんお世話になってるようだね」
 かろるは父を睨んだ。
「勘違いしないでよ。ユウヤさんは」
『あの、僕から説明しようか』
 慎太郎は、大きく伸びをして言った。
「娘の交際の邪魔をする気はないよ。それに三十八万キロ彼方から帰ってきたばかりなんだ、少し部屋で休むよ。詳しいことはあとで聞かせてくれ」
 かろるは肩をすくめた。慎太郎が欠伸をしながらダイニングを出て行く。
 ユウヤが笑った。
『なんだか、楽しそうな人だね』
 かろるは微笑した。
「まあね。一緒にいて退屈はしないよ」
 ユウヤの顔を見つめなおす。
「それで、いい知らせって?」
『そうそう』
 ユウヤは、何かの書類を示してみせた。
『初めのころ、学会での発表を手伝ってもらったよね。たくさんの企業から資金援助の話も来てるし、今日、ついに特許が認められたんだ』
「へえぇ」
 かろるは、満面に笑みを浮かべた。
「よかったじゃない、ユウヤさん」
『ありがとう。これで先生の努力も報われたよ』
 かろるはそっと、画面に右手を差し伸べた。
 ユウヤもそれに応えて、手をのばしてくる。
 二百年の時と、数万の画面素子越しに、二人の指先が触れ合った。
「…おめでとう」
『ありがとう』

「お邪魔じゃないかな?」
 ダイニングの入り口に、ひょこりと慎太郎の顔がのぞいた。
「パパには悪いけど、邪魔です」
「わはは、そう言うなよ。ユウヤくんに挨拶がしたい」
「さっきしてたじゃない」
 ユウヤが口をはさんだ。
『まだ時間あるから、あとでまた話そうよ。僕も、かろるさんのお父さんと話してみたいし』
 かろるは肩をすくめた。
「…ユウヤさんがそう言うなら」
 かろるは立ちあがって、父親に席を譲った。
「そのパソコン、ヘンなとこさわっちゃダメだよ。古いんだから」
「わかったわかった、しばらく向こうで遊んでなさい」
 かろるは何度か振り返ってから、ダイニングを出ていった。
「あれを聞いたかい? 『ユウヤさんがそう言うなら』」
 慎太郎は、親指でかろるの出て行ったほうを指した。
「かろるのやつ、君にすっかり惚れてるようだな」
 ユウヤは少しためらって、言った。
『そんなことないですよ。いい友達ってだけです』
「男同士だ、遠慮はいらん。君の本音を聞かせてくれ。うちのかろるを好きなのか?」
 ユウヤはまた、少し沈黙をはさんだ。
『好きです。…かろるさんはすごく魅力的だし、素直だし…』
 慎太郎が答える前に、ユウヤは急いで付け足した。
『だけど…わかってるんです。いくら好きでも、ここからじゃ僕の気持ちが届くわけないですから』
 ぎこちない笑みが、ユウヤの顔に浮かぶ。
『だから、友達以上のことは望んでません』
 慎太郎は、目を閉じて深く頷いた。
「…それなら、何も言うことはない」
 画面の中で、ユウヤが一礼した。
『…でも、かろるさんはとても寂しそうに見えます』
 ユウヤはうつむいて、言った。
『何とかしてあげて下さい、お父さん。僕の身体はもう何千億もの原子になって、地球の彼方に散らばってるでしょうから』
「娘の友人にお父さんと言われると複雑だが」
 慎太郎は一瞬笑ったあと、その笑みを消した。
「約束しよう、ユウヤくん」
『…ありがとうございます』

「ねえ、パパ」
 夕食の時にかろるは訊いた。
「ユウヤさんと何を話してたの?」
 慎太郎は箸も止めなかった。
「男同士の話に、女が首を突っ込むものじゃない」
「あたしのことじゃない?」
「今度の旅先なんだが」
「絶対そうね」
 慎太郎は苦笑してから、言った。
「ブラジルに二ヶ月の予定だったんだが、半分繰り上げる。一月で帰ってくるよ」
 かろるはニンジンのスティックをくわえたまま、言った。
「ふぇ、あんで?」
「少し仕事に疲れてね。この研究が一段落ついたら、しばらく休みをとるつもりだ」
「ふーん…」
 かろるの口元で、ニンジンがしゃくしゃくと上下に動いた。

 三日後、かろるは父親を再び送り出した。
「行っちゃった…か」
 かろるはため息をついた。
 コンピュータの画面をそっと撫でる。ユウヤが心配そうに、かろるを見つめていた。
『大丈夫?』
「へーきだよ」
 かろるはテーブルの上に突っ伏して、もぐもぐと言った。
「あたし子供のころは、パパと一緒に地球やら月やら、いろんなところで大人に混じって暮らしてたんだ。パパ、人類学者だから…原住民の村とか、そんなところばっかりだけど」
『同じ年頃の友達がいないってこと?』
「そう。砂漠を転がってく、まんまるい草があたし。十六の時から東京に一人で残ってハイスクールに行ってるけど、鉢植えのキレイな観葉植物とじゃ、話もなにも合うはずないでしょ」
『心を許せる友達とか、いないの?』
「……」
 かろるは笑って、そっと画面を撫でた。
「ゆーやさん」
 ユウヤは肩をすくめた。
『僕以外でさ』
「…いないよ、そんなの」
 かろるの瞳からなにかが溢れて、頬を伝った。
『かろ…る』
 かろるは待ったが、そのあとの「さん」はなかった。
「ユウヤ…さん?」
 ユウヤは、視線をそらさずにずっとかろるを見つめていた。
『そばにいてあげられたら、どんなに嬉しいだろう』
 かろるは目を閉じて微笑した。
「ユウヤさんって、結構ベタなセリフ言うんだね」
『…だけど、本当にそう思うんだ』
 かろるは、画面の中のユウヤにそっと触れた。
「でも…ありがとう。少し楽になったよ」
『…よかった』

 数日後、学校からの帰り道。
 夕暮れの道を歩いていたかろるの影に、もう一つのそれが追いすがっていく。
「よぉ、かろるじゃん」
 振り向いたかろるは、一瞬顔をしかめた。
「げっ、太一…」
「そりゃねえだろ。久しぶりに会えたってのに」
 かろるは彼を無視して、歩き出した。太一はかろるのすぐ後ろをついてくる。
 かろるの耳元をなめるように、太一がささやいた。
「そう冷たくすんなって。そりゃこないだはちょっと手荒なことしちまったけどよ、それだってお前のこと愛してるからなんだぜ」
「は?」
 太一がにやりと笑う。
「好きなんだ。どうしても会いたかったんだよ」
 かろるは足を止めた。太一が続ける。
「学校でも帰り道も、お前いつも一人じゃねぇか。それじゃ寂しいだろ?」
「大きなお世話だよ」
「だから俺でよければ、いつでもそばにいてやるって言ってんだよ」
 かろるは、目を閉じた。
 太一はかろるの耳元に、軽く息を吹きかけた。かろるはびくりとして目を開いた。
「あの…悪いけど、今日あたし早く帰らなくちゃ」
「そうか? 引きとめて悪かったな」
「ううん…べつに」
 かろるは一つ身震いすると、薄暗い道を駆け出した。

家についたのは、ちょうど配達員が帰ろうとしていたときだった。
「お帰りなさい。サインを」
「あ、どうも…」
 かろるは荷物を手にして、ほっと息をついた。
「…ねえ、ユウヤさん」
 いつものように、かろるはダイニングでユウヤに言った。
『なに?』
 ユウヤの血色のいい顔を見て、かろるはため息をついた。
「ユウヤさんは今、好きな人いるの?」
 ユウヤは少しぎこちなく、言った。
『うん…いるよ』
 かろるの胸を何かが突いた。
「そう…なんだ」
 かろるは、片手を軽く顔にあてた。
「ユウヤさんに愛されてる人がうらやましいよ…」
『かろるさん?』
「ごめん…少し疲れてるの。今日はもう…一人にして」
 ユウヤは視線を落として、しばらく宙を睨んでいた。
『…わかったよ。それじゃ…さよなら。また連絡するよ』
「きっとだよ?」
 映像が消えて、黒い画面だけが残った。

 かろるは次の朝、ドアのチャイムで目を覚ました。
 目をこすりながら壁のモニターに寄って、ボタンを叩く。
「ふぁい」
 モニターの向こうで、太一が笑って手を振った。
 かろるは画面を見つめなおした。
「…太一? 何よこんな朝早く…」
 太一が画面の向こうで言った。
『出席日数は足りてんだろ? 学校サボって野球見に行こうぜ』
「えっ…」
『な、いいだろ?』
 かろるは沈んだ顔をして、しばらくうつむいていた。
『な、かろる』
「…いいよ。ちょっと待ってて」
 太一がガッツポーズをとった。かろるはそれを見て、悲しそうに笑った。

 かろるは、太一と一緒に野球場のスタンドにいた。
 太一は満面の笑みを浮かべている。かろるも同じだった。
 二人は隣り合った席に座って、周囲に混ざって声援を送っている。
 後ろから、若い男がかろるの肩を叩いた。
 かろるが振り向くと男は表情を変えて、人違いをしたことを謝った。かろるは笑い、そそっかしい青年を見送った。
 振り向くと、太一の目つきが変わっていた。
 太一はスタンドの喧騒の中で、かろるに何か怒鳴った。かろるは顔をしかめてフィールドに注意を戻した。
 太一がかろるの肩を押して、むりやり彼女を振り向かせた。
 かろるは詰め寄られて、面倒くさそうに太一に文句を言った。
 次の瞬間、太一はかろるを突き飛ばした。

 かろるは、洗面所で自分の顔を眺めた。
 額に大きなガーゼが貼ってある。両目が赤くなっていた。
 冷たい水を出して、咽にこびりついた血の塊を洗い流した。
 通話機が鳴った。かろるはリビングに行って、テーブルの上のボタンを押した。
「…はい?」
 モニターに太一の顔が映る。
『大丈夫か?』
「そう見える?」
 かろるが言うと、太一は静かに顔を伏せた。
『ごめん、ホントにごめん。俺、興奮してて』
 かろるはため息をついた。
「もういいよ」
『これっきりってことないよな? 俺…許してくれるんなら、何でもするから』
「わかったよ。もう切るね」
『ほんとに、ごめんな』
 かろるはもう一度ため息をついて、ガーゼの上から傷に触れた。

『どうしたの、そのオデコ?』
 ユウヤが眉を寄せながら言う。
「ちょっと…ね。平気だよ」
 かろるは少し笑ってみせた。
『……』
 ユウヤは、じっとかろるを見つめた。
『理由を話して』
「台所で転んだのよ」
『絶対に嘘だ』
「何でそんなことわかるの?」
『そういう表情してるから』
 かろるは目を伏せた。ユウヤは口を閉ざした。
「…わかったよ。太一にやられたの」
『太一って?』
「あたしの…友達」
 ユウヤは腕組みした。
『友達は選ばなくちゃ』
「わかってるよ」
 かろるはそっぽを向いた。
『かろるさん…』
 ユウヤはためらってから、言いなおした。
『かろる』
 かろるの頬が紅潮する。直後にかろるは、画面に背を向けた。
『寂しいのはわかるよ…だけど、もっと自分を大切にしなくちゃ』
 かろるは唾を飲みこんでから、言った。
「それって、二十一世紀の言い回し?」
 ユウヤがじっとかろるの背を見つめる。
『かろる。顔を見せて』
 かろるは切なそうに、何度も吐息をついた。
「…見せられないよ」
『君が心配なんだ』
 かろるは目を閉じて、顔を両手で覆った。
「…何であたしのことなんか…そんなに、心配してくれるの?」
『その答え、君の目を見て言いたい』
 かろるは膝を抱え込んで、顔を埋めた。
 ユウヤはさびしそうに、かたく丸くなってしまったかろるの背を見つめた。
 静かに、ユウヤは言った。
『…かろる。君を愛してる』
 かろるの背中が、わずかにのけぞるように動いた。
『だから言うんだ。君は、もっと強くならなくちゃ駄目だ。何に対しても、君は受身でありすぎる。かろる…お願いだ。さみしさだとか、周りの状況だとかに流されてたら、もっともっと君は傷つく。もっと強くなるんだ、かろる』
 かろるはシャツの胸をぎゅうっとつかんだ。指が白くなるほどに。
「…あなたに何がわかるの?」
 かろるは吐息をついた。
「二百年だよ。そのあいだ人間がどうなったかなんて、わからないくせに」
 かろるは言葉を切って、呼吸を整えた。
「孤独の寂しさなんて、知らないくせに。熱中できることがあって、研究がうまくいって、華やかな世界に生きてるひとに、独りぼっちのあたしの気持ちなんてわかるわけないのに」
『…かろる…さん』
 かろるは顔をゆがめて、あえぎながら言った。
「あたしって…!」
 かろるのあごから、涙が滴った。
 かろるはコンピュータに手を伸ばして、ユウヤの映像を消した。

 翌日から、かろるの家に手荷物が届かなくなった。

 二週間後。
 真夜中に帰ってきたかろるは、まっすぐ洗面所に向かった。
 灯りをつけて、鏡をのぞく。かろるは鏡の女を見て顔をしかめた。
 かろるは額と頬の傷を撫でた。その腕にも痣ができていた。
 通話機が鳴ったが、かろるは放っておいた。
 洗面所の灯りを消し、そのままで、かろるはダイニングの椅子に座った。
「…ユウヤさん?」
 一人きりの家の中で、つぶやくかろる。
「ユウヤさん…きこえる?」
 かろるの声は、鼻にかかって不明瞭だった。
「お願い…気付いて…あたしに。あたしを助けて、ユウヤさん」
 かろるはうつむいた。
「あんな…ひどいこと言って…ごめんなさい。わかってる…もうあたしのことなんか嫌いになったよね? …でも頼れるひと、ユウヤさんしかいないんだもん」
 かろるは嗚咽をもらし、言った。
「あたしもユウヤのこと、愛してる」
 テーブルに伏せて、かろるは、激しく鳴き声を上げた。

 かろるは翌朝、ドアのチャイムの音で目を覚ました。
「…?」
 目をこすりながら、モニターを見る。
 見なれた顔の配達員が立っていた。
 かろるは叩きつけるように、ドアを開くボタンを押した。
 荷物を受け取るとかろるは、しばらくそれをしっかりと抱きしめていた。

 ディスクをコンピュータに押し込む。
 再生ボタンを押す。
 画面が光って、青年の顔を映し出す。
「ユウヤさん、あたし…」
 ユウヤは微笑して、首を横に振った。
『いいんだ。わかってる』
 ユウヤが、画面の向こうから手を伸ばしてくる。かろるは目を閉じ、ユウヤの指が自分のキズの周りを愛撫するところを想像した。
 かろるが目をあけたとき、ユウヤの指は画面に触れたままだった。
「あたし…。…ごめんなさい」
 ユウヤは微笑んだまま、言った。
『いいんだよ。僕も君との距離を考えると、気が狂いそうになる』
「…ユウヤ」
 ユウヤが一つ咳払いして、言った。
『だから、決めたんだよ』
 かろるはまばたきをした。
「…何を?」
『決めたんだ。低温睡眠装置に入る』
「え?」
 かろるは胸元を押さえた。ユウヤは続けた。
『知らないのかい? 人間の身体機能を、低温にすることで極端に低下させて、生きたまま長い時の流れを越えられるようにするんだ。
つまり、僕はこの年齢のまま二百年間眠り続け、君のいるところで目覚めることになる』
 かろるは、大きく息を吸い込んだ。
「人間を冷凍するの?」
『大学の別のチームがやってるプロジェクトにそういうのがあるんだ。あいつら、こちこちに凍らせる人間を前から欲しがってた。そう、ちょうどインド洋で獲れたマグロみたいにね』
 ユウヤが笑ったが、かろるは声を荒げた。
「人間はマグロじゃないでしょ」
『そりゃ…そうだ』
 ユウヤは、じっとかろるを見つめた。
『危険性は承知の上さ。冷凍するときの手順の一つ一つ、生命を維持する二百年間、解凍されるとき、総合すればやや割の悪い賭けになる。だけど、わかってて行くんだ。君には僕が必要だし、僕には君が必要なんだ』
「……」
 かろるは、ユウヤを見つめ返した。
「愛してる」
『僕も愛してるよ』
 ユウヤがそっと、右手を画面にあてた。かろるも指の一本一本を、彼のそれに添えた。
 かろるはユウヤを見つめた。
「ユウヤさんって、初めてのキスはいつ?」
『十五のとき』
「あたしは十三。それじゃ今までで最高のキスは、いつだった?」
 ユウヤは笑った。
『たぶん、二百年ぐらいあとになるだろうね』
 かろるは、優しげに微笑した。
「待ってるよ」

 ユウヤの告げた大学の名を、かろるはデータベースで検索した。
 テーブルの上のモニターが表示する情報を目で追い続け、数分後、かろるは立ちあがった。

 かろるが現れたのは、東京郊外のT大病院。
 ロビーに入ったかろるの周りを車椅子の人、白衣の人、消毒のにおいの空気が包みこんだ。
 かろるは数秒じっとしたあとで歩き出し、受け付けに向かった。
 受け付けの女性はかろるを不審な目で見つめた。
「低温睡眠…ですか? そのような患者さんは…」
 かろるは受付の言葉を遮った。
「絶対いるはずです。調べてください」
「…はあ」
 受付は、かろるに背を向けたモニターのキーを叩いた。
「患者さんのお名前は?」
「進藤…ユウヤです」
 コンピュータの画面が赤い光を放つ。受付は目を見張った。
『機密事項・アクセスコードを入力してください』
「…少々お待ち下さい。あなたのお名前は?」
「深沢かろるです」
 受付は、ロビーのソファを指し示した。かろるは振り向き、肩をすくめてソファに向かった。
 受付はコンピュータを、院長室につないだ。

 かろるは何度もロビーを見回しながら、ソファの上で身じろぎしていた。
 一人の初老の男が近づいてくる。白衣を着ていた。
 声をかけられる前に、かろるは彼を睨んで言った。
「何かご用?」
 男は灰色の頭を一度下げ、言った。
「深沢かろるさんですね。副院長の沖田幸一です」
 かろるは眉をひそめながら、軽く頭を下げた。
「…さて」
 沖田はうつむいてしばらく考え込むような顔をすると、言った。
「ここではなんですから、私の部屋までご案内しましょう。よろしいですか?」
 かろるは、不審顔のまま立ちあがった。

 通されたのは巨大な椅子と机のある部屋だった。沖田がそこに腰掛ける。その正面に、小さなソファがあった。
 すすめられたソファに見向きもせずに、かろるは叫んだ。
「これってどういうことなんですか? ユウヤさんはどこ?」
 沖田は重厚な机の向こうから、かろるを見ていた。
「ですから、どこで進藤ユウヤのことを知ったのか、それを話していただきたい」
 かろるは顔をしかめた。
「それが大事なことなんですか?」
「とても大事ですよ。とてもね」
 かろるはため息をついて、事情の説明を始めた。
 沖田は手もとのコンピュータの画面を見ながらキーを操作している。かろるが話を中断すると、顔を上げて続きをうながした。
 話が終わると、沖田はもっともらしく一つ頷いた。
「なるほど…タイム・ミラーね。今調べたんですが、確かに二十一世紀にその技術が開発された記録があります。だが数年後に政府の命令で研究が凍結されている」
「…え?」
「そうなんですよ。どうも倫理的社会的に問題が多すぎたようで」
 沖田は視線を上げてかろるを見た。
「低温睡眠も、同じ理由から研究が中断している。それ以前の冷凍体は、解凍されたものもあれば、残念ながら死亡したものもある。お話の進藤ユウヤは、未だ冷凍状態のままです」
 かろるは言った。
「ユウヤさんは…生きてるの?」
 沖田は頷いた。
「はい。…彼が冷凍されたのは二十一世紀の初頭で、これだけ古いサンプルは他にない。過去の人間というのはそれだけで魅力的な研究材料ですし…」
 かろるは顔を歪めた。
「なんですって?」
 沖田が微笑する。
「いや、失礼。それに彼が解凍されていないのには、他にも理由がありまして。…このころの冷凍体を解凍して蘇生した例は二体に一体程度しかありません。五分五分では…賭けに出るわけにはいかないんです」
「ユウヤさんは、危険を承知の上でした」
 かろるは言った。
「彼を起こしてください」
「それはできませんね」
「なぜ?」
 沖田は肩をすくめた。
「あなたは法的に、進藤ユウヤに対して何の権利も持っていないんですよ。彼は我々の財産だ。その扱いについて他人から口を出されるいわれはない」
 かろるは、うつむいてぎゅっと目を閉じた。
「ユウヤさんが誰かのものだっていうなら、あたしのものです」
 沖田はため息をついた。
「話は終わりです。お引取りを。本来これは機密事項です…進藤ユウヤの生存がわかっただけでも、よしとしてもらわなくては」
 沖田はかろるを指差した。
「それから、このことは決して外部に漏らさぬように。それを忘れると、お父さんにも迷惑がかかりますよ」
 かろるは顔をしかめた。
「父は関係ありません」
 沖田は片方の眉を上げると、手元のコンピュータに目を落とした。
「そう、私達もできれば、著名な人類学者である深沢慎太郎氏を巻き込みたくはない。それでなくても、家庭的に不幸なかたですしね。
奥様を十年前に亡くし、その影響でご令嬢は…あなたはしばらく失語症にかかられた」
 かろるの顔が青ざめた。沖田は無表情に続けた。
「あなたは一年間入院したが回復の兆しはなく、深沢氏は結局自身の不安定な生活にあなたも同行させることにした。お父上のそばの暮らしであなたの心はいくらか癒えたが、それは同年代の若者との間に溝をつくる結果にもなったようですね。…今現在あなたは東京都内のハイスクールに通っているが、友達と呼べる人は非常に少ない。違いますか?」
「…調べたんですか?」
 沖田はコンピュータから顔を上げた。
「我々を甘く見ないほうがいいということです。もし裁判に持ち込むようなことをなさっても、こちらはあなたの手札を全て見通してしまう。勝負にはなりません」
 かろるは無言のままくるりと回れ右をすると、部屋を出た。

 かろるは、ダイニングでじっと座っていた。
 目の前にコンピュータがある。
 画面は、暗いままだった。
「…皮肉だよね」
 かろるは、その黒い画面を指でなでた。
「前よりずっと近くにいるのに…話もできなくなっちゃった」
 かろるは顔を伏せた。
「…ユウヤさん…あたし疲れちゃった」
 かろるは立ちあがった。
 台所へ向かう。果物ナイフを探して、手にとる。
 ゆっくりと、左の手首に近づけていく。

 ドアチャイムが鳴った。
 かろるは顔を上げた。
 後ろを振り向いて、わずかにためらうかろる。
 しばらくしてから、もう一度チャイムが鳴った。かろるはナイフを置いて、台所を出た。
 モニターをのぞくと、父が立っていた。
「…パパ」
 かろるは玄関へ向かった。
 ドアを開けると、慎太郎が笑った。
「ただいま、かろる」
 その笑顔は、すぐに潮がひくように消えていった。代わりに現れたのは、気づかいの表情だった。
「どうしたんだ、その顔は」
 かろるは目を伏せて小さく笑った。
「ひどい顔でしょ」
「何があった?」
「目は真っ赤だし、顔は傷だらけだし。見られたもんじゃないよね」
 慎太郎が腕をのばす。かろるは父の胸に頭を預けた。
 慎太郎は赤ん坊をあやすように静かに身体を揺らしながら、かろるをしっかりと抱きしめた。
「すまなかった…かろる。私は…父親失格だ」
「そんなことないよ」
 大きな父の手を背中に感じて、かろるはため息をついた。
「パパは、最高の父親だよ」
 かろるは微笑した。
「最高のタイミングで帰ってきてくれたもん」

 数日後。
 太一は手に花束を持って、かろるの家のチャイムを押した。
 しばらく沈黙があって、ドアが開いた。太一は笑顔になったが、その表情はすぐに強張った。
「誰だよあんた?」
 出てきたのは、ビジネススーツを着た中年の女性だった。
「深沢かろるさんの弁護士です」
 太一は吐き捨てるように言った。
「弁護士なんて呼んでねーよ。かろるはどこだ?」
 事務的な口調で、女性は言った。
「依頼人は、あなたには会いたくないと言っていますよ」
「おいおいおい…」
 太一は花束を見せて、笑った。
「だから、謝りに来たんだよ。それぐらい構わないだろ?」
 女性は手を出して、笑った。
「ありがとう。渡しておきます」
 太一は女性を睨んだ。
 花束をポーチに叩きつけると、太一はそれを踏みつけた。
 女性がじっと太一を見つめると、太一は唾を吐き、ドアに背を向けて歩き出した。
 女性はため息をついて、崩れた花束を拾い上げた。太一が去っていくのを確認し、ドアにしっかりと鍵をかける。彼女がリビングに戻ると、かろるはソファから立ちあがった。
「どうだった? 何かされなかった?」
 女性はにっこりと笑った。
「帰ったわ。もう大丈夫」
 かろるはため息をついて、ソファにすとんと腰掛けなおした。隣に座っていた慎太郎がかろるの肩に手をまわす。
 かろるは女性を見上げて、言った。
「ありがとう、ジャニー。あなたって頼もしいわ」
 ジャニス・チャペルは笑顔で、花束をテーブルに置いた。
「かろるちゃん、あなたあの男を訴えたほうがいいわ。今日は何もなかったけど、これからもそうとは限らないでしょう?」
 かろるは片手で顔を覆った。
「でも…あたしべつにそんな」
 ジャニスは首を横に振った。
「裁判であの男があなたにしたことを立証できれば、一生あなたのそばに近寄れないように、裁判署から命令を出させることができるわ」
「……」
 慎太郎がかろるの手をとった。ジャニスが言う。
「私はもともと、あなたのような人を助けるために弁護士になったの。…それにかろる、このままじゃあなたは負け犬よ」
 かろるは顔を上げた。
「何ですって?」
 ジャニスはかろるの目をじっと見つめた。
「選ぶのは、あなたよ。だけどあなたが戦うつもりなら、私は全面的に協力するわ」
 かろるは、ちらりと慎太郎を見た。父はかろるの手を握ったまま、じっと目を閉じていた。
「…すこし、考えさせて」
 ジャニスが肩をすくめ頷いた。かろるは立ちあがって、リビングを出た。

 かろるは、自室に戻っていた。
 テーブルに座って、じっと頬杖をついている。かろるの前には、ユウヤのコンピュータがあった。
『かろる、君を愛してる』
 ユウヤが言う。
『だから言うんだ。君は、もっと強くならなくちゃ駄目だ。何に対しても、君は受身でありすぎる。かろる…お願いだ。さみしさだとか、周りの状況だとかに流されてたら、もっともっと君は傷つく。もっと強くなるんだ、かろる』
「……」
 かろるはそっと、画面の中のユウヤに指を触れた。
 すぐ横で、二十三世紀のコンピュータがブザーを鳴らした。
「パパ?」
 テーブルの上の木目が消えて、父の顔が映る。
『チャペルさんが帰るそうだ。下へ降りておいで』
 かろるは、もう一度ユウヤの顔を見つめた。
 彼女の指がまっすぐ電源にのびて、彼の笑顔を消した。
「ちょっと待ってもらって」
 かろるは立ちあがって、髪をかきあげた。
「あたし、決めたわ」

 スーツに身を包んだ二人の女性が、こつこつと階段を上っていく。
 今まさに裁判所に入ろうとしながら、かろるは大きく深呼吸した。
「ジャニー、私すごく不安なの。やれるかしら」
 隣のジャニスが、かろるの肩を横抱きにした。
「大丈夫よ。あなたは、ただ少し緊張してるだけ。誰でも最初はそうなのよ」
「…ありがとう」
 白く巨大な裁判所の建物の前で、かろるは立ち止まった。ジャニスも彼女にならい、二人は大理石の床の上で見つめあった。
 かろるは、ぐっと唇を結んでから、言った。
「今まで本当に、ありがとう」
 ジャニスは微笑して、かろるを軽く抱きしめた。
「…さあ、行きましょう。ここが正念場よ」
 かろるは、力強く頷いた。

 女性弁護士のすらりとした足が、法廷を静かに周回していた。
「…私はこれまで、いかに一人の人間の尊厳が汚されてきたかをお話してきました」
 彼女は陪審員一人一人の目を見つめ、ゆっくりと歩きながら、続けた。
「人権の問題は、未だに解決されざる問題です。そして、決して目をそらしてはならない問題です。みなさんの判断次第で…彼のみならず、大勢の人の未来が左右されることを、お忘れにならないでください」
 彼女は足を止め、手振りを交えながら、言った。
「彼は一人の人間であり、自分の運命を自分で選択する権利を持っています。例え命の危険を背負いこむ事態になったとしても、彼はそれだけの危険を犯すにたる何かを、探していたのです。不死の病を患った患者が自らの延命治療を拒む権利を持っているように、人は、誇りある生のために、自らの命を賭ける権利を有しています」
 陪審員たちは皆緊張した顔で、女性弁護士を見つめている。
「…一人の人間としてそれは、非常に勇気のある生きかたではないでしょうか。何人たりとも、そのような生を否定し、妨害することは許されません。国家であろうとも、医師であろうとも、巨大な資本を持つ企業であっても」
 彼女は唾を飲みこんで、続けた。
「人間は不当に支配を受ければ、必ず、自由を求め闘うものです。不幸にして…低温睡眠中の進藤ユウヤ氏には、怒りの声をあげることができません。ですから私はこの告発を行い、彼の人権と…誇りある命を守るために、この半年間、彼の代弁者として、闘いつづけてきました。陪審員の皆さん…どうか良識ある判断をお願いします。」
 かろるは目を伏せ、大きく息をついた。
「以上で、最終弁論を終わります」
 裁判長が小さな槌でパッドを叩くと、スピーカーが大きな音を響かせた。
「二時まで休廷とします。陪審員の皆さんは別室にて協議に入ってください」
 かろるはざわめきと喧騒の中を、弁護団席へと戻った。ジャニスが笑顔でかろるを迎えた。
「私、うまくやれたかな」
 かろるが言うと、ジャニスは大きく頷いた。
「上出来よ、必ず勝てるわ。私は確信してるわよ」
「だといいんだけど…」
「ところでかろる、昼食は? あなたのパパと約束があるんだけど、一緒にどう?」
 かろるは首をかしげた。
「あら、とんでもない。そんなヤボな真似できるわけないでしょ」
「いいのよ。シンとはいつも会ってるもの」
 かろるは書類をまとめると、片手で軽く髪をはらった。
「ごめんなさい。せっかくだけど、インタビューが入ってるの」
「そうなの、残念ね」
 ジャニスは法廷を見渡した。
「…どうしたの?」
「凄いカメラの数ね。あなたはすっかり有名人だわ」
 かろるは肩をすくめ、軽く首を横に振った。
「全部あなたと、事務所のみんなのおかげよ。私一人じゃ、絶対にここまではこられなかったわ」
 ジャニスはかろるの頬に手をあて、そっと微笑した。
「立派になったわね。あなたは、私の誇りよ」
 かろるは、ジャニスの手を握った。
「…ジャニー…」
 かろるの目が、かすかにうるみを帯びる。ジャニスはかろるの肩を叩いた。
「さあ、もう行きなさい。インタビューに遅刻するわよ」
 かろるはひとつしゃくり上げてから、頷いた。
「はい」

 かろるの相手は、若く美しい東洋人女性だった。
 小型のカメラを持った男性が、かろるの前に待機している。
 かろるは手の中の鏡で、何度も化粧と髪を確かめた。
「大丈夫よ。あなたは十分きれいだわ」
 かろると女性は、喫茶店の席に差向かいに座っている。かろるはそう言われると、慌てて鏡をバッグにしまった。
「始めます。緊張しないで、わたしを見て話して」
 感じ良く笑いながら女性が言う。かろるは緊張した笑顔でそれに答えた。
「ではまず…深沢さん。判決まであと二時間足らずとなりましたが、
この裁判で勝利する自信は、どれくらいありますか?」
 かろるはひとつ咳払いをした。女性の切れ長の目を見ながら、言う。
「この裁判を、半年間闘ってきました。ここまでやってこれたのは、
私を様々に支援してくれた人達のおかげです…自信というよりも、その人達の力への信頼という形で、勝利を信じています」
「なるほど」
 かろるはため息をついた。
 一瞬目の前がぼやけて、かろるは、ユウヤの顔を見ていた。
「あなたは弱冠二十一才、しかも弁護士となって初めてのケースで、
国立病院という巨大な相手を告発されたわけですよね。この裁判が後の法曹界に及ぼす影響については、どのような考えをお持ちですか?」
「この裁判は、冷凍睡眠体という非常に特殊なケースを扱った貴重な先例になるでしょう。確かに私も主要なメンバーの一人ではありますが、これは私の所属するチャペル法律事務所が起こした訴訟です。その功績は私一人でなく、事務所の同僚全員と、チャペル弁護士に帰せられるものです」
 ユウヤの顔のむこうで、女性が可笑しそうに笑った。
「そうですね。それでは、この裁判を通じてあなたがマスコミに登場したころ、芸能界からのスカウトの話もあったというもっぱらの噂ですが、なぜ弁護士の道を選んだのですか?」
 かろるは、少し赤くなった。
「自分の生き方を、自分で決められる人間になりたかったんです」
 女性は、好意的に頷いた。
「それでは、次の質問にいきましょう」
 二、三の個人的な質問が続いた。父親の職業のことや、かろるの生い立ちについて、現在のかろるの暮らしについて。
 最後の質問、と予告した問いが終わると、女性はにっこりとして片手を差し出した。
「どうもありがとう。非常に有意義な時間でした」
 かろるはほっと息を吐き出して、彼女の手を取った。
 カメラを持っていた男性が一つ礼をして、立ちあがった。女性も席を立って言った。
「さてと、判決の前までにこれを流さなくちゃ。せっかくだけど、もうお別れしなくちゃ」
「忙しいんですね、マスコミって」
 かろるは微笑して、コーヒーをすすった。
「あなたほどじゃないわよ」
 女性は笑顔を返した。
「深沢、かろるさん。随分世渡りが上手そうね」
「…そんなことないですよ」
「インタビューを見る限りでは、あなたはそういう印象よ。…悪い意味じゃないのよ? 私、頭のいい女が大好きなの」
 女性はひとつ、ウインクをした。
「また取材させてもらうわね。それから暇があったら、お友達になりましょ」
「あは、喜んで」
 
 
 

 かろるがそれを受け取ったのは、事務所から帰ってすぐだった。
「こんな荷物、心当たりないんですけど?」
 かろるがそう言うと、配達員は頭を掻いた。
「確かに久しぶりですけどね。住所は確かに、ここですよ」
 かろるは肩をすくめて、伝票にサインをした。
「どうも。今後ともよろしく」
「あたしのおかげで随分もうかったでしょ?」
 かろるは笑いながら、ドアを閉じた。
 手に、古びた荷物が残る。古びた包装紙は見なれたものだが、大きさは掌に乗るほど。差出人の記載はない。
 かろるはダイニングに戻って、言った。
「ユウヤさん、これは?」
 ユウヤは、手にした端末から顔を上げた。
 コンピュータの黒い縁取りは、その顔の周囲にはない。
 ユウヤの手がのびて、かろるの手に触れた。
「…っ」
 かろるが、ぴくりと身体を震わせた。
「どうしたの」
 ユウヤが笑った。
 かろるは荷物を置くと、片手で瞳を覆った。
「まだ、しんじられないの」
「僕がここにいることが? …」
「ユウヤさんがあたしに触れることが」
 かろるは手をどけて涙をあらわにし、そのまま、笑った。
「あれだけ激しく愛し合ったあとなのに、ばかみたいね」
 ユウヤは立ちあがって、両腕でかろるの身体を包んだ。
「…あ」
「これで信じられる?」
 かろるはため息をつきながら、ユウヤを抱きしめた。
「ユウヤさんがパパのセーター着て、当たり前の顔してうちにいる」
「確かに僕は居候だよ」
「あは、そうじゃないの。いくらでもここにいて。…しあわせだって言いたいの」
 ユウヤは黙って、かろるの置いた荷物を取った。
「やっぱり、ユウヤさんなんでしょ?」
「まあね」
 ユウヤは照れたように笑いながら、包装の紙を破りとった。
 出てきたのは、青いビロード地で覆われた箱だった。
 かろるが見守る前で、ぱちんと音をたてて箱が開いた。
「…プレゼント」
 かろるは、おそるおそる箱を受け取った。
「指輪…じゃない」
 シンプルにカットされた宝石が、透明な輝きの中で、微かに青い光を放っていた。
「これ、なんていうの?」
「ダイヤだよ。ブルーダイヤモンド」
「もらって…いいの?」
「かろるに、もらってほしいんだ。…これぐらいしかできないから」
 かろるはそっと指輪をとって、左手の薬指にはめた。
 ユウヤが赤くなるのを見て、かろるは微笑した。
「こういうことでしょ?」
「君さえよければ」
「ちゃんと言いなさい。でないと返すわよ」
 ユウヤはちょっと困ったように笑うと、かろるの両肩に手を置いた。正面から見つめられて、今度はかろるが赤くなった。
「かろる」
「はい」
 ユウヤは言った。
「結婚しよう」
 かろるは、こくりと唾を飲みこんだ。
 じっと、ユウヤの顔を見つめる。
 何度か唇をあえがせた後、かろるはひとつ、頷いた。


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