バーを下げると、機首が風を切る音がつよくなった。エアの髪は根元から後ろに流れている。緑色の海はゆらめく草の一葉一葉に変わった。
バーを引き機首を上げると、エアの髪はふわりと少女の頬を撫でた。脚が前に振られて宙を踊り、振り子のように戻ってきたそのつま先は、草を踏みしめて地面をつかんだ。
エアは息を吸いこみ、唇をすぼめて細く吐き出していった。舞っていた髪が肩に落ちていくのと同時に、エアの背に広がった白い翼が、ゆっくりと地面に降ろされていった。
「もういいのかい、エア?」
横に、青年が立っていた。振り向いたエアの目の上を髪が撫でた。
「あたしまだ、行くって決めたわけじゃない」
青年の眉が悲しそうに下がって、微笑みをつくった。
「父さんは、もういないんだよ。兄さんと街に来るのが嫌なのかい?」
エアの頬が、ぼうっと灯をともしたように赤くなる。
「しらない」
エアの兄は指をのばして、風に揺れるエアの髪の流れに触れた。
「兄さんは、お前をいい学校に入れてやりたいんだ。街にくればいい服も着られるし、友達もたくさんできる。おいしいものもたくさん食べられるんだ」
エアは急にそっぽを向くと、グライダーを背から下ろした。
翼の間の横棒を外すと、白い羽根はたるんで草の上にだらりと垂れた。エアの小さな白い手が、骨組みをばらして小さくしていく。細い腕からエアの兄が部品を取り上げると、
グライダーはあっという間に分解されて兄の背の荷物になった。
「あたし、自分で持てるよ」
エアが言うと、兄はエアを見下ろしてにこりと笑った。
「いいんだよ」
エアは手をのばして、自分のグライダーを取り返そうとした。
「持てるの」
兄はひょいと荷物を抱えなおして、エアに届かないように肩に担いだ。エアは頬を真っ赤にして兄の周りを飛び回ったが、グライダーはエアの指をかすめるだけだった。
露に濡れた草の上で、エアの足がぴしゃりと鳴った。
エアと兄が小屋に戻ったとき、祖父は大きなテーブルに向かっていた。その節くれだった指の間から、ロープがとぐろを巻いている。テーブルの上のカップには半分ほどお茶が残っていた。
兄は祖父の真向かいに座り、エアは隅の方にひっこんで、椅子の上で足を抱えた。
「帰ってきましたよ、おじいちゃん」
エアの祖父の顔は日焼けして、なめしたように硬く光っていた。額にも頬にも、深い皺が刻まれていた。その皺の間から大きな瞳が兄を見つめて、祖父はひとつだけ頷いた。
「えらく、いい暮らしをしてるようだな」
兄が微笑んだ。
「ええ。でも街のほうじゃ、当たり前のことですよ」
エアの目がまるくなる。祖父が頷く。
「そりゃあまあ、そうだろう」
祖父の手がごりごりとロープを編む。
兄が首を振りながら、テーブルに手をついた。
「おじいちゃん。まだ気は変わりませんか」
祖父が頷く。動き続ける手の間から、するするとロープが伸びる。
「おれのことはどうでもいい。エアを街に連れていって、なんだ。どうするんだ」
「教育を受けさせますよ。しかるべき職業につくためには大学程度には進んで、数学や科学や、歴史を学ぶ必要があるんですよ」
祖父が顔をしかめながら、また頷く。余った繊維をぐるぐると巻きこんでロープの端を
つくる。
「おれは学問がないから、むずかしいことはよくわからん。お前がそれがいいって言うんなら、そうなんだろう」
「それじゃあ、一緒に街に住んでくれるんですね?」
「そんなことは言ってないぞ」
兄がぽかんと口をあける。祖父はロープを巻き上げて輪を作っていった。
「おれの息子は、ウルクの山の中にいる。だからおれもここで暮らす」
巻きあがったロープを持って、祖父が立ちあがる。エアを見つめて祖父は言った。
「エア、お前は頭がいい。兄さんと街に行って、学校に行け」
エアは唇をとがらせた。
ロープを編む音が止まって、小屋の中はしんとしていた。
エアは身体を縮めて、膝をぎゅっと胸に寄せた。小屋の中は静まりかえって、しばらく
誰も身動きしなかった。
兄がごほんと咳払いをした。ゆっくりとロープの輪を肩にかかえて、祖父が小屋を出た。
「しょうがない子だな」
兄が微笑む。
「おじいちゃんだって、エアのことを心配してるんだよ」
エアは丸く小さくなったまま、言った。
「そんなこと、わかってるもん」
エアのそばで、グライダーの翼がだるそうに夕陽を浴びている。
紫に染まった草に寝そべって、エアは空を見上げていた。七色の雲が飛んでいた。
「これ、食えよ」
差し出されたりんごを受け取ると、みしりと重い感触がした。
隣で、少年が焼けきったストーブのような色のりんごにかじりついている。エアは起きあがって、両手で持ったりんごをみつめた。
「ありがと、シン」
「おれが港から取ってきてるって、誰にも言うなよ」
「いわないよ」
袖で皮を磨いてから、りんごの端をちょっとかじる。甘い果汁があふれ出てきた。頬が酸っぱいような痛いような感じがして、エアはきゅっと目を閉じた。
「なあ、エア」
シンがりんごの種を吐き出す。
「これじゃ、ウルクの山頂は無理だよ」
エアは表情を変えなかった。
「…どうしてそう思うの?」
緋色の翼のしたで、シンが顔を上げる。
「この腕木じゃあ、翼を支えきれないよ。やっぱりとねりこ材じゃないと」
シンと同じ向きに、エアも翼をながめる。
「お父さんは使ってたけど。…とても買えないし。これでも何とかなるよ」
「これからの季節、が吹くんだ。翼が破れなくても、きっと腕木が折れるよ」
「だけどあたし、やってみたいの」
沈黙が下りた。
エアは微笑みながら、視線を下ろした。シンがじっとエアを見つめていた。
猫のようにびくりと、エアは顔をそむけた。
「…やめとけって。絶対、無理なんだから」
りんごを持ったままの手で、エアは自分の両膝を抱きしめた。
「お父さんも、みんなにそう言われて。帰ってこなかった」
「だったら、余計だよ」
エアが微笑む。
「きっとお父さん、あたしとおんなじ気持ちだったと思う」
シンが見つめる。エアは見つめ返して、言った。
「どこまで飛べるか、やってみたいの。どれぐらい高く。どれぐらい遠く」
シンがぷいと横を向いて、りんごをかじった。
「死んだって知らないからな」
「でも、やれるだけやってダメだったら、死んじゃってもしょうがないじゃない」
エアは前につんのめった。頭の後ろがじんじんと痛んだ。
「何で叩くのぉ」
エアの前に、シンが不自然に腕を突き出す。指の間で、こちこちと秒針が時を刻む。
「これ、やるよ」
ローマ数字の文字盤の下で、無数の歯車がきしみあっている。エアは目を見張った。
「おれの父さんが、外国の港で買ってきてくれたんだ」
「…いいよ、そんな」
「やるって」
「いいよ」
「やるっ」
シンが手の中に、無理矢理時計を押しこむ。エアは途方にくれたようにシンを見つめた。
シンは立ちあがって、かじり終わったりんごを放り捨てた。
「神渡が一番強い時間、知ってるの?」
エアは、ふるふると首を横に振った。
「午後の二時から三時。その時間までかかりそうだったら、引き返しなよ」
シンはそう言うと、丘から駆け下りていった。
「あ、ありがとう、シン」
エアは急いで、お礼を言った。
空が、深い藍色に染まってきた。
三月に神は空をわたり、ウルク山の山頂に居を構える。
神は風を呼んで、自らが山へ昇る手助けとする。
その三月の風は、と呼ばれる。
エアの身体がぐらりと傾ぐ。コートを着けた腕が強張る。
息を吸うと咽が冷たく痛み、胸の中に溜まった空気が呼吸のじゃまをする。
襟巻きの毛に、エアの吐息が白く凍りついた。
脇の下を氷交じりの風が吹きぬける。エアは身体を縮こまらせ、バーを引いた。風は翼の下に釣られたエアの身体を激しくなぶる。翼がパン生地のように大きくふくらみ、エア
を上へ上へと押し上げていく。骨組みが気味の悪い音をたててきしみをあげる。
エアはひとつ、咳こんだ。紫色になった唇の前に、白い息が踊った。バーを握った拳がひっきりなしに震えていた。
凍りついた壁が、エアを拒み続けていた。
エアは顔をしかめ、頭上を見上げた。風がエアの髪を巻き上げる。
乾いた何かを、叩きつけるような音がした。エアの右手からバーが逃げた。
赤らんでいたエアの頬が青く染まり、瞳が焦点を失った。
エアの翼が真中から折れた。翼の両端が上を向き機体がキリモミを始めた。
翼を失ったエアは、青い空の中をどこまでも落ちていった。
―――
――――
―――――
エアは震えながら目を覚ました。
グライダーが、左右の翼を重ねた姿で横たわっている。その間を支える腕木が折れ、不ぞろいな折れ目には雪がうっすらと吹き付けられていた。
身体を起こすと、積もっていた雪がさらりとこぼれ落ちた。エアは両手を全身に這わせ、自分の小さな身体をきょろきょろと見つめた。
傷のないのを確かめると、エアはひとつため息をついた。
見上げると、冷たい壁がどこまでも空に沿って続いていた。エアが翼と一緒にいるところは、棚状の張り出しの上だった。
エアはグライダーに手をのばし、すぐに引っ込めた。翼は真っ二つに折れていて、この
場で修理できるはずもなかった。
エアは、震えた。
立ちあがって辺りを見回す。ウルクの岩壁はゆっくりとカーブし、棚が細い回廊になって消えていた。
風が吹いて、エアの髪を吹き上げた。エアは両腕で身体を抱き、足の裏で岩を擦りながら歩き始めた。
角を曲がると、靴があった。
脚が見え、壁に寄り掛かるように座った人の姿があった。
エアは、その場に膝をついた。
青い唇がぱくぱくと動く。目が赤くぼうっと濡れて、頬を涙が滑り落ちた。涙のあとがそのまま凍り付いて残った。
「パ…パ」
エアの父が、そこにいた。
髪も、まぶたも、氷に覆われている。エアは指をのばして、父の腕に触れた。
冷たかった。硬かった。エアは唇をゆがめて、しゃくりあげた。父の顔は微動だにせず、眠りつづけていた。
エアは両手で、熱い涙を拭いた。何度も何度も拭いた。
父の白い手のそばに、伏せた手帳が落ちていた。エアは鼻をすすり、真っ赤な目をして、それを拾い上げた。
手帳は硬く、氷の塊のようになっている。開いてあったページから、エアは雪を払い落とした。震える字体で文字が綴られていた。
『…骨組みが無事でも、翼が破れては飛ぶことはできない。
子供たちのことが心配だ。ナラムは頭がいいから、大学を出ていい職業につけるだろう。
あいつは母親に似て良かった。
エアは大丈夫だろうか。泣き虫のあの子が、私なしでやっていけるだろうか。それに私は、あの子に翼を持つことを教えてしまった。
私から翼を取ったら、何も残らない。エアには、そんな人間になってほしくないものだ。
眠たくなってきた。
今眠ったら、もう目が覚めないだろう。
怖い。
親父、すまない。
ナラム、エア。
父さんはいつまでも、お前達を愛して
』
ノートはそこで途切れていた。
エアの指から手帳が落ちた。両手で顔を覆い、エアは大声を上げて泣いた。
凍りついた手に手を重ねて、ぼんやりと空を見上げる。
膝のうえに、父の手帳があった。
エアは視線をおとし、びくりと顔を上げた。
振り向くと岩壁のくぼみに、グライダーが押しこんであった。父の翼だ。
『骨組みが無事でも、翼が破れては飛ぶことはできない』
エアは跳ね起きると、凍りついた翼に手を伸ばした。
左右から骨組みを覗きこむ。破れた皮からつららが垂れ下がっている。ベルトに挟んであったナイフを出して、骨組みの氷を削り取っていく。
しゃがみこみ背伸びをして削り続け数ヶ所を終えた後で、エアは手に力を込めた。グライダーから、ぱきんと音をたてて弓状の腕木が外れた。
父の隣に座りこみ膝の上に腕木を載せると、エアは一心にナイフを使い始めた。足元にみるみるうちに削り屑が積もっていった。
削りあがった腕木を一振りして脇に抱える。エアは小走りに、自分のグライダーのもとに戻った。父の翼からとった腕木はエアのグライダーに、がしりとはまり込んだ。
エアは翼を背負うと、目を閉じてひとつ深呼吸した。
手帳をふところに押しこむ。父の姿を振り返る。
ポケットに手を入れ、鎖を探し当てる。引き出したシンの時計は、時を刻み続けている。
分針がこちりと動いて、午後二時を指した。
エアの髪が風に暴れた。翼がいっぱいに風をはらんで、エアの踵が岩を離れた。エアはつま先でウルクの岩をつつきながら、バーを押し下げバランスを保った。
「心配いらないよ、パパ」
エアは、父に向かって微笑んだ。
「あたし、ウルクの山を越えてくる。それが終わったら、お兄ちゃんと街に行くから」
エクボのそばを涙が滑り落ちる。
「泣くのは、これが最後だから」
エアは笑ったまま、泣いた。
「もう心配しないで…パパ」
エアは真っ赤な目で、眠っている父を見つめた。
「…パパ、大好きだよ」
風が吹き上がる。エアはバーを引いた。翼は解き放たれて、エアの身体を天空に放った。
神渡がエアの翼を叩きつける。腕木がきしみ皮膜が張り詰める。エアは歯を食い縛った。
激しい風が吹くたびにグライダーが揺れる。目の回るような速さで山腹が下に滑っていく。
目の前が白く染まった。冷たい霧が全身に吹きつけられてきた。エアは息を止めた。
神渡の風が吹き抜け白を切り裂いてウルクの岩壁を見せた。エアは翼を傾け岩壁に寄せた。翼が重さを失い岩の模様が激流のように流れていった。
エアの目を蒼い光が刺した。
足の甲に、ねっとりした霞がまとわりついている。
ウルクの山が、雲から突き出したひとかけらの岩塊で終わっている。
風は穏やかになり、だがエアは楽々と滑空を続けられた。エアは身体をひとつ揺らし、黒い岩に近づいた。
右足を伸ばし、エアは、ウルクの山頂をとんと踏み付けた。その足を蹴り出して、エアは再び宙に舞った。
空は蒼い水晶のように澄み切り、一筋の雲もなかった。
雲はミルクを張った水面のように、しんとしてエアの下に広がっていた。
エアはただ黙って、黒い影を雲の上に落とし続けた。
甲高い鳴き声が、長く尾を引いて響いた。エアの隣にひとつ、小さな影が寄り添った。
エアは顔を傾けた。
ハヤブサが一羽、エアのすぐ左を飛んでいる。羽毛が磨き上げた銅のように輝き、瞳はエメラルド色をしていた。
エアが微笑むと、ハヤブサが鳴く。エアが旋回すると、ハヤブサもぴたり着いてくる。
ほとんど羽ばたかずに、ハヤブサはゆらゆらと宙を漂っていた。
二つの影は寄り添いながら、雲の上を滑りつづけた。
時計台が、五時の鐘を打つ。
エアは、束ねていた髪をほどいた。
風が吹きあがる。エアの青い髪が幾筋にも分かれて、きらきらと輝きをまとう。
エアは、時計台の瓦の上にいた。
翼が朝陽を受けて、金色に輝く。エアは目を閉じ、身体を大きく伸ばした。むき出しの肩から腕が、張り出した胸から足のつま先までが、女らしい美しい曲線を描いた。エアは胸のなかいっぱいに、朝の大気を吸い込んだ。
隣で青年が片目をつむり、親指を立てる。エアは頷き、微笑んでみせた。
「それじゃあシン、朝ゴハンの用意よろしくね」
シンは腕組みして、首を傾げた。
「次に落ちるときは、ちゃんとうちの自転車屋を避けろよ」
「そんなこと、わかんないよ!」
エアは笑いながら駆け出した。
時計台の雨どいを蹴りだし、エアは、金色に輝く屋根の上に舞った。
目を閉じ、身体中を吹きすぎていく風を感じる。
どこかで、ハヤブサが鳴いた。
Image song--- “dragons’ dance” YKI