なぜだか無性に海が見たくなった。
 理由を挙げるとしたらそんなところだろうか。もちろん、そんな理由で仕事を休めるほど社会っていうものは甘くはないけれど。ぼくは、取るつもりも理由もなくて、ぼくの中では名前しか存在の意味がなかった有給休暇と言うものを初めて取ることにした。理由は…、まあ適当にごまかしておくことにした。当然、本当の理由は海を見ることだったが…。
 なるべく遠くの海を。遠くで、あまり人がいなくて…。考えて、ぼくは苦笑した。いくらなんでも、平日の昼間、しかも凍り付くような寒さの真冬にわざわざ海を見に行くような人は、せいぜいぼく ぐらいのものだろう。ぼくは、かなりぼろい愛車を走らせた。中古車の中でも一番安かったものだ。いつ壊れるかわからない。いきなり煙を噴き出しても不思議ではない。別に懐が寒かったわけではないのだから、もっといいものを買うべきだった。でも、なんとなくこの車に引かれるものがあった。…まさか、何かが取りついているわけじゃないだろうな。 

 海は、寒かった。当然と言えば当然だが…。本当は、真っ青な海を想像していたのだが、まあ曇り空なのは誰のせいでもないからしょうがない。ぼくは、さらさらの砂の上に座り込んだ。風が痛いほど強く吹いている。痛いのは、まきあげられた砂のせいでもあるのかもしれない。それ以上に、ただ冷たいということもあるのだろう。波の音と、風の音。ただそれだけが耳に痛い。 

 ふと気がつくと、涙が流れていた。冷えきった頬に、熱いものが感じられた。吹き付けられる風の痛みと、鳴り響く音の痛みと、なぜだかわからない心の痛み…。ぼくは、抱えたひざに頭をうずめて、ひたすら泣いた。まるで子供のように、ただひたすら…。
「どうしたの?」
 唐突に、頭の上で声がした。顔を上げると、女の人がぼくを見つめていた。
「あ…、何でもないよ…」
 何が何でもないのかわからなかったが、そういってぼくは涙を拭こうとした。その手を、その人が押さえる。
「別に拭かなくてもいいじゃない」
 そう言って、その人は微笑んだ。まるで天使のように…。
「泣くことは、別に恥ずかしいことじゃないよ」
 そう言ったその人の声と、ぼくの手を握るその人の手、そして何より、その笑顔が、ぼくを心の底から暖めてくれた。気がつくと、涙は止まっていた。

 これが、彼女との出会いだった。ぼくのすべては、ここから始まったのかもしれない。

Copyright 1998. せい
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