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第一話 アクトレス・ドール

「う……ん」
 僅かに呻いて四須崎冬馬(しずさきとうま)は目を開いた。ぼんやりと視界の 中に白い天井が飛び込んでくる。見慣れた木の天井ではないことに気付き、彼は 僅かに眉をしかめた。その途端、ズキっと頭が痛む。
「アタタ……」
 最近は縁がなかった二日酔いの痛みに左手を額に当てる。ゆっくりと上体を起した 彼は、見知らぬ女性が自分の横で寝ていることに気付いてギョッとした表情を 浮かべた。自分も彼女も、何一つ身に付けていない。
(おい……嘘だろ?)
 そうっと、彼女を起こさないように慎重にベットから降りる。床の上に乱雑に 散らばっていた衣服を身に付けると、冬馬は痛む頭で記憶を探った。
(昨日は……そう、大滝の奴にコンパの人数合わせに誘われて……)
 ちょうど、恋人にふられた直後で、半ば自棄になって参加したコンパ。その席で 随分と酒を飲んだのは覚えている。だが……。
(記憶、ないんだよなぁ、全然)
 眠っているのは、自分より一つか二つぐらい下−−多分今年度の新入生といった ところだろう。おとなしそうな、女性というよりも女の子といったほうがしっくり くる、美人というよりは可愛いタイプの娘だ。とりあえず、熟睡しているのか目を 覚ましそうな気配は今のところ、ない。
(参ったなぁ……。最悪)
 定期と財布は、ズボンのポケットに入ったままだ。さて、どうするか、と冬馬は 腕を組んで考え込んだ。
(同意の上、なのは、多分間違いないだろうけど……お互い酔ってて同意も何も、 なぁ。騒がれると面倒だし……ここは、三十六計って奴か)
 自分が彼女の名前を思い出せない以上、相手も自分の名前なんか覚えてはいない だろう。まあ、後で問題になったらその時はその時。かなり情けないことを考え ながら冬馬はそうっと寝室を出た。リビングのテーブルの上に置いてあった自分の 鞄を取る。ざっと中身を見たが、特になくなっているものはないようだ。まぁ、最初 からほとんど何も入っていない鞄だが。
「さて、それじゃ、さよならといきますか」
 二日酔いのせいかズキズキと痛む頭を押さえながら、冬馬は玄関の扉を開けた。 朝の光に目を細めながら音を立てないようにゆっくり扉を閉める。
「……で、ここは一体どこだ? やれやれ……」
 軽い鞄を肩に担ぎ、冬馬はとりあえず歩き出した。しばらく歩けばコンビニの 一つや二つはあるだろうから、そこで駅までの道を聞けばいい。
 くしゃくしゃになった煙草をポケットから取り出し、くわえると冬馬は溜め息を ついた。
*    *    *
「で、そのまま帰ってきたんだ?」
「悪いかよ……」
「べっつにぃ。だけどさ、その彼女、今頃怒ってるんじゃないの? 『私のこと、 もてあそんだのねっ。ひどいわ』とかってさ」
「気色悪いから、声まで作ってんじゃねーよ」
 ぱしっと平手で相手の頭を叩きながら冬馬が不機嫌そうな声を出す。へへへっと 笑うと大滝は肩をすくめた。
「でも勿体ねーよな。覚えてないんだろ? 全然」
「まぁ、な……」
「あーあ、いいよなぁ、冬馬は。顔がいいからもてることもてること。コンパでも 人数合わせのくせして女を集めやがって」
「どうでもいいのにもてても嬉しくないんだよ」
 ますます不機嫌そうにそう言って冬馬が立ち上がる。ずずっとオレンジジュースを ストローで吸い上げながら大滝が上目遣いに彼の顔を見上げた。
「やめとけっていったろ。恭子とお前じゃ、合わないんだよ」
「かもな。だけど、それでも……」
「あいつじゃなきゃ嫌、か。ったく、女なんてよりどりみどりのくせしてよ。 こういうのがいるから俺にまで回ってこねーんだよなぁ」
 大滝の言葉に面白くもなさそうな笑いを冬馬が浮かべる。
「別に、何人か紹介してやってもいいけどな」
「御冗談を。人に恵んでもらうもんじゃないでしょ、彼女なんてのは」
「だな。お前がそういう奴だから、いまだに付き合ってやってるんだけどな」
 冬馬の言葉にふんっと大滝が鼻を鳴らす。コップの中でカランと崩れた氷が音を 立てた。ストローをくわえたまま椅子の背に体重を預ける大滝。机の上に放り出して あった鞄に冬馬が手を伸ばし掛けた瞬間、がらっと音を立てて部室の扉が開いた。 ひょいっと土屋が顔を出す。
「シズー、お客さん連れてきてやったぞぉ」
「客? 俺に?」
「受付んところで困ってたから、拾ってきた。ほら、おいでよ」
 おいでおいでと外に向かって土屋が手招きする。彼女と扉の間の狭い隙間を くぐるようにして、一人の女の子が部屋の中に入ってきた。彼女の顔を見た 途端、冬馬がげっと小さく声を上げる。
「き、君は……」
「あ、あの、ごめんなさい。迷惑かとも思ったんですけど、冬馬さん、これ、 忘れていったから……」
 おどおどとしながら黒皮の手帳を差し出す。困ったような表情を浮かべて 立ちすくむ冬馬。怪訝そうな表情を浮かべて土屋と大滝が顔を見合わせる。
「手帳……。それで、わざわざここまで……?」
「は、はい。もしかしたら、困ってるかも、って、そう思いましたから……」
「中、見た?」
 冬馬の問いに、プルプルと彼女は首を横に振った。
「み、見てません! その、私、そんなことするような女じゃありませんから!」
「まぁ、見られても困るようなこと、書いてないけど。わざわざごめんね」
 手帳を受け取りながら冬馬がそう言う。顔を真っ赤にして彼女は俯いた。
「い、いえ……。冬馬さんに会えたから、それで、もう」
「ねぇ、シズ。出来たら私らにもその子のこと紹介してほしいんだけど?」
 壁にもたれ、腕を組むと土屋がそう言う。同感と言う風に大滝も頷いた。
「え? あ、いや、その……」
「あ、私、百合沢朱音(ゆりさわあかね)って言います。よろしくお願いします」
 そう言って頭を下げた朱音に、土屋が苦笑を浮かべた。
「いや、まぁ、名前も何だけど……あんたら、どーゆー関係?」
「どーゆー関係って……それは、その……」
「ふぅん、なるほどぉ」
 真っ赤になって俯いた朱音に、ニヤニヤと土屋が笑いを浮かべる。つんつんっと 大滝が冬馬の背中をつついた。
(なぁ、お前。あれ、ひょっとしてさっき話してた……)
(あ、ああ……)
(どーすんだよ?)
(どうしたらいいと思う?)
(知るか。自分でなんとかしろ)
 ひそひそ声で会話をかわす二人。ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべたまま土屋は そんな二人のほうを眺めている。
「あ、それじゃ、私、もう帰りますね。あんまり長くいてもご迷惑でしょうから ……」
「まぁまぁ。これからなんか用事でもあんの? 朱音ちゃん」
 ペコリと頭を下げた朱音に、馴々しい口調で土屋が声を掛ける。困惑したような 表情を浮かべ、朱音が答える。
「いえ、特にはありませんけど……」
「じゃ、さ。四人でどっか遊びに行こうよ。お酒、大丈夫でしょ?」
「ごめんなさい。私、まだ19だから、お酒は、ちょっと……」
「あらあら、真面目なんだ。いいのよ、大学生になったら飲んでも。ちゃんと 法律でも決まってるんだから」
「コラ、偽法学部生。出鱈目を教えてるんじゃない。飲酒喫煙は二十歳になってから だろーが」
 苦笑を浮かべながら大滝が口を挟んだ。腕組みをしたまま土屋が胸を張る。
「私は中学の頃から飲んでたわよ。大体、あんただって新歓でしこたま飲んで 吐いてたじゃないの。偉そうなこといえる立場?」
「いや、だから、別に酒飲みに行くのはいいけどさ。本人の意思を無視して 飲ませるのはヤバイだろーって話をしたいわけ。
 あ、ついでに、俺今おけらだから、よろしくね」
「威張りながら言うなって。ああ、はいはい、特別にトイチで貸したげるから。
 で、朱音ちゃん、どうする? 今ならオプションでシズもついてくるけど?」
 冗談っぽい土屋の誘いに、朱音は困ったように冬馬の方を見た。ふいっと冬馬に 視線を逸らされ、一瞬悲しげな表情を浮かべる。
「あ、でも……御迷惑でしょうから、私は遠慮しておきます。どうぞ皆さんだけで 楽しんできて下さい」
「迷惑だなんてとんでもない。ね、大滝」
「そ。キレーなお姉ちゃんがいてくれると酒も旨くなるしね。冬馬、お前からも 誘ってくれよ。その顔をいま活かさずにいつ活かすんだ?」
「そーそー。あ、そういえば、私誰かさんにお金を貸してたよーな気がするなー。 誰だったかなー?」
 土屋と大滝、二人の視線を浴びて冬馬はいらついたように頭をがりがりと 掻き回した。ちっと舌打ちをしてそっぽを向く。
「いきゃいいんだろ、いきゃ。百合沢さん、もし都合がよければ……」
「いいんですか……? 本当に?」
 不安そうな表情を浮かべながら朱音がそう問い掛ける。冬馬が答えるよりも早く パンっと土屋が顔の前で両手を打ち合わせた。
「よーし、そうと決まれば善は急げよ。行きましょ」
「まだ居酒屋なんてやってねーぞ?」
「その前にカラオケ行って時間潰してればいいのよ。ほら、三人とも、行くわよ!」
「カラオケ、ねぇ……。瑠佳(るか)の野郎、一旦マイク握るとはなさねーん だよなぁ」
 とっとと部屋から出ていった土屋の後を苦笑を浮かべながら大滝が追う。その手に 自分のバックが握られてるのを見て、冬馬は溜め息をついた。
「あの野郎……」
「あ、あの、冬馬さん、もしかして、怒ってますか? 私のこと……」
「怒る? 俺が君を? どうして?」
 きょとんとした表情を浮かべた冬馬に上目遣いに彼の顔を見ながら朱音が答える。
「だって、今朝は何も言わずに帰っちゃったし、今も、その、全然目を合わせて くれないし……」
「それは、その、気まずかったから。昨日は、あの、ごめんな。酔ってたからって、 その……」
「え? だって、昨日誘ったのは、私の方、で……。あの、もしかして、昨日のこと、 覚えてなかったり……します?」
 口元に手を当てて朱音がそう問い掛ける。ポリポリと頬を掻きながら冬馬は視線を あらぬ方へとさ迷わせた。
「あの、その……ごめん!」
「そう、何ですか……。私、初めてだったのに……」
 朱音の瞳に涙が滲む。あたふたと冬馬が意味もなく手をバタバタさせた。
「え、えと、あの、その、ごめん! あの、悪気は……」
「いえ、いいんです。冬馬さんが酔っているのにつけこんで、無理に家に誘った 私が悪いんです。気にしないで下さい」
「でも……」
「別に、これをネタに脅そうとか、そんな事、考えてませんから。冬馬さんが二度と 顔も見たくないって思ってるんだったら、もう来ません。私のこと、忘れて下さっても 結構ですから」
 滲んだ涙を拭いながら無理やり作ったような笑顔を朱音が浮かべる。戸惑ったように しばらく視線を宙にさ迷わせると、冬馬はスッと右手を朱音の方に差し出した。
「え?」
「取り敢えず、さ。あいつら先に行っちゃたし、追いかけよ? まだお互いのこと ほとんど知らないわけだし、とりあえず今んとこ、いっしょにいたくないってほど 嫌いじゃ、ないから」
「は、はい!」
 冬馬の言葉に、本当に嬉しそうに朱音は頷いた。
*    *    *
「へぇ。それじゃ、中・高と演劇部だったんだ?」
 水と変わらないペースでジョッキを開けると土屋が感心したようにそう問い掛ける。 はにかむように俯いて朱音は頷いた。
「はい。主役もらえたことは、ないんですけど……。でも、舞台の上に立ってる だけで充分幸せになれるから……」
「ふぅん。そっかぁ、演劇かぁ……いいな、何か打ち込めることがある人って」
「おめーも何かやればいいじゃんか。演劇サークルだってうちにゃあるぜ?」
 既に半分以上出来上がっている大滝がそういう。苦笑とも自嘲ともつかない笑みを 浮かべると土屋は肩をすくめた。
「知らないの? 私ね、中二の時に演劇部で主役演じたこと、あんのよ。 オペラ座の怪人。でもね、燃えないの。私ってほら、何でも努力なしで 出来ちゃう人間だから」
「天才はいいよなぁ。俺なんてさ、努力しても努力しても……くっそー、何か ムシャクシャしてきた。冬馬の奴だって、顔がいいってだけですーぐにこんな 可愛い子つかまえちゃうしさー。ちえっ」
 前に置いてあった日本酒の瓶をつかみ、そのまま呷る大滝。呆れたように 肩をすくめると土屋は視線を冬馬の方に向けた。
「でもさ、シズって、本当にもてるよねぇ」
「世の中の女共に見る目がないんだよ」
 不機嫌そうにそう言いながらちびちびとブランデーをなめる冬馬。くすっと 土屋が苦笑を浮かべた。
「そーゆー台詞は、もてない男が言うんだよ。
 ねぇ、朱音ちゃん。彼とはもう寝た?」
「え? ええと、その……」
 オレンジジュースの入ったコップを持ったまま朱音が真っ赤になる。あやうく 口の中の酒を吹き出しそうになって冬馬が土屋のことを睨んだ。
「瑠〜佳〜」
「あはは、なるほど、この辺りが弱点か。しばらくはこのネタでたかれそーね」
「あのなぁ、彼女は……うん?」
 ピーピーという携帯電話の発信音に冬馬が眉をしかめた。この番号を教えて あるのは、たった一人だけ……。
「悪い、ちょっと席外すわ」
「ごゆっくりー。さて、朱音ちゃん。いつまでもオレンジジュースじゃ、お店の人に 失礼だと思わない? ここって一応、お酒を出す店なわけだし」
 笑顔で冬馬に手を振ってみせると土屋は正面の朱音の顔を覗き込んだ。
「え? でも、だって……」
「いーい。法律はね、破るためにあるのよ」
「こらこらこら。過激なことを言うんじゃない。それが将来裁判官になろうって 人間の台詞か?」
「だぁって、法律破る人がいなきゃ裁判官の仕事なくなっちゃうもの。
 まあ、何ごとも体験よ。取り敢えずそんなに強くなくて、飲みやすいの選んで あげるから、ね」
「は、はい……」
 土屋に押し切られるように朱音が頷く。満足そうな表情を浮かべると彼女は 店員に向かって手を振った。
「すいませーん。中生とカルーアミルク一杯ずつお願いしまーす」
 はーいという声を聞きながら大滝が土屋のことを睨んだ。
「そんなに強くなくて、飲みやすいで、カルーアかぁ?」
「甘いコーヒー牛乳って感じの味だから、飲みやすいのは確かでしょ?」
「そりゃそうだけど……まぁ、居酒屋なら大した事ねーか」
「ね? 問題ないでしょ?」
 大滝と土屋の会話に、少し不安そうな表情を朱音が浮かべる。それに気付いて 土屋がぱたぱたと顔の前で手を振ってみせた。
「大丈夫よ。確かにちょっとアルコール度は高いけど、ほんとにちょっとだけだから。 それに、万が一あなたが酔い潰れちゃったら、責任を持ってシズに遅らせるし」
「だって……そんな、御迷惑はかけられません」
「迷惑何かじゃないって。あいつだって結局は男なんだし、口で何と言おうと 内心じゃ絶対喜ぶに決まってるもん。
 あ、どーも」
 最後の言葉はビールのジョッキとカルーアミルクのコップを持ってきた店員に 向けたものだ。自分の前にジョッキを置きながら朱音へとコップを渡す。
「はい、どうぞ。一口口に含んでみて、美味しくなかったら無理しなくていいからね。 あたしかタキが責任とって飲むから」
「あ……いただきます」
 おずおずといった感じでコップに口を付ける朱音。興味津々といった感じで土屋は その表情をうかがっている。どうでもいいというような表情で串カツに手を伸ばし ながら、大滝も視線は朱音のほうに向いていた。
「本当に、コーヒー牛乳みたいな味ですね。もっと、こう、つんっとくるかと思って たんですけど……」
「美味しい?」
「ええ。これなら、全部飲めそうです」
「何が飲めそうだって?」
 不意に頭上から降ってきた言葉にきゃっと小さく朱音が悲鳴を上げる。悪い、と、 口の中で謝りながら冬馬が彼女の横に腰をおろした。軽く首をかしげるようにして 土屋が冬馬に問い掛ける。
「電話、誰から?」
「……友人からだよ」
「恭子ね」
「……誰でもいいだろ。お前には関係ない」
「そうね。でも……あたしと彼女は親友だったわ。そして今は、あたしとシズは 友達だと思ってる。親友とは呼べないまでも、ね」
 妙に真剣な土屋の表情に、冬馬が黙り込む。ちんっと彼女の前のジョッキの縁を 大滝が串カツの串で叩いた。
「はいはい、二人とも暗くならないよーに。朱音ちゃん、困ってるよ?」
 おどけた口調の大滝に、くすっと土屋が笑った。ジョッキに半分ほど残っていた ビールを一気に喉へと流し込む。目を丸くした朱音へとへへっと男のような笑顔を 彼女は浮かべてみせた。
「あたしねぇ、うわばみなのよ。あ、うわばみって分かる?」
「えと……大酒飲みのこと、でしたっけ?」
「そ。だから、もうビールなんて水代わりね。シズもタキもそんなに強くないから、 こういう店にくると何かあたしばっかり飲んじゃうんだけど。
 あーあ、スガちゃんでも連れてくれば良かったなー」
 朱音の言葉に、困惑気味の視線を朱音は隣の冬馬へと向けた。軽く肩をすくめ、 素っ気ない口調で冬馬が答える。
「春日美春(かすがみはる)っていう、俺たちの友人の事さ。やっぱり底無しでね」
「へぇ……美春さん、ですか。綺麗な名前ですね」
「男に付ける名前じゃないけどね。本人、名前に結構コンプレックスあるみたい だから、もし知り合う機会があったら名字で呼んでやってね」
 はむはむと一人でホッケの塩焼きを平らげながら大滝がそう言う。少し驚いた 表情を朱音が浮かべた。
「あ、男性なんですか? 私、てっきり……」
「ま、無理もないよ。名前を先に紹介しとくと、大抵の人はびっくりするから」
「へぇ……そう、なん、ですか……」
 会話の合間にこくこくとコップの中身を飲んでいた朱音が、不意にテーブルの 上に突っ伏した。彼女の前にはほとんど何も置かれていなかったのが不幸中の幸いか。 それでも彼女の手から転がったコップからコーヒー色の液体がテーブルの上に 広がって行く。流石に慌てた表情になって大滝と土屋が布巾で零れた酒を拭き取った。 冬馬はと言えば、びっくりしたような表情を浮かべて突っ伏した朱音の顔を覗き 込んでいる。
「どーしたの? 急に?」
「…………寝てる」
「はぁ?」
 憮然とした冬馬の答えに、間の抜けた声を土屋があげた。
「あらら……まさか、本当に酔い潰れるとは思わなかったわね」
「何、飲ませたんだよ?」
「カルーアミルクをコップに……そうね、これだと半分くらいかな?」
「お前な……」
「だぁって、まさかこの程度で酔い潰れるなんて思わないもの。居酒屋のカルーア なんて、だいぶ薄くしてあるんだしさ」
 ぷうっと少し拗ねたような表情を浮かべて土屋がそう言う。呆れたように 溜め息を付くと冬馬は朱音の肩を掴んで上体を引き起こした。
「世の中にはな、カルピスハイ一口で真っ赤になる奴もいるんだよ。お前の基準で 酒の強い弱いを考えるんじゃない」
「ま、今回はあたしも悪かったと思うけど……どうするの?」
「お前らは彼女の家を知らないだろ? となると、嫌でも俺が送ってかなきゃ しょうがない。
 百合沢さん、百合沢さん。起きて」
「う……ん」
 うっすらと目を開けると朱音は冬馬のほうをぼんやりとした表情で眺めた。諦め 顔になって立ち上がると冬馬は朱音へと手を差し延べた。
「一人で立てる?」
「あ……はい。きゃっ」
 立ち上がった途端に足がふらつき、朱音はちょうど冬馬に抱き抱えられるような 態勢になった。かぁっと元から赤かった顔がますます赤くなる。
「ご、ごめんなさい」
「いいから、つかまってて。危ないから。
 瑠佳、今日の払い、お前持ちだからな」
「あー、はいはい。送り狼になるんじゃないわよ、シズ」
 口調とは裏腹にけしかけるような表情で土屋がそう言う。苦笑を浮かべると 冬馬は靴へと足を突っ込んだ。彼の場合、紐は結んだままでそのまま履いたり 脱いだりしているので、こういうときは時間が掛からない。
「ごめんなさい……御迷惑、かけます」
 ヒールが低めで良かった、などと心の中で思いながら朱音は靴を履いた。冬馬に もたれかかるような感じで店を出る。夜風がほてった身体に心地好かった。
「さぁて、タクシーが上手くつかまるといいんだけど……」
「あ、私、別に電車でも……そのうち、酔いも醒めると思いますし」
「うーん。じゃ、駅まで歩く? ちょっと夜風が冷たいけど」
「はい。それに、こうしてるととっても暖かいですから……」
 冬馬の胸に頭を預けるようにしながら朱音がそう言う。苦笑を浮かべると 冬馬は朱音の肩を抱き寄せた。
「『銀の鎖に繋がれたもので何を為す?』、か……」
「え? 冬馬さん、その台詞、どうして……?」
「好きな台詞なんだけど、どこで知ったのかは忘れてた。でも、さっき 思い出したんだ。高校の時、友達に誘われていった文化祭で、演劇部がやった劇。 その中の君の台詞だったね」
 冬馬の言葉にはにかむような表情を朱音が浮かべる。
「ええ。そうして、魔女(私)の問いに対する王子様の答えはこう。 『ガラスの鍵で、ガラスの扉を開ける』。
 ねぇ、冬馬さん。これ、どういう意味だと思います?」
「あの時は、単なる合い言葉なんだろうって深くも考えなかったけど、最近は ちょっと違う風に考えてる。『ガラスの扉』は、友人同士や恋人同士で生まれた 誤解とか偏見とか、そういう『見えない壁』。 それを開ける『ガラスの鍵』は……照れくさいけど、『信頼』とか 『友情』、『愛情』なんじゃないかなって」
「素敵ですね……見えないけどそこにあるもの、ですか?」
 朱音の言葉に冬馬は頷いた。すっと視線を正面へと向けて、朱音は何かを見つめた。 何か−−もしくは、ここには居ない『誰か』を。
「冬馬さん。じゃあ、この台詞は、覚えていますか?
 金の鎖に繋がれし、哀れな者は今いずこ?」
「え? そんな台詞、あったっけ……?」
「ええ。今度は、王子様の問いに魔女が答えるっていう場面で、王子の問いの 台詞です。私の答えは、こう。
 愛しき者の、腕の中」
 骸(むくろ)となりて、抱き締められぬ。
 台詞の後半を心の中で呟いて、朱音はにこっと笑いを浮かべてみせた。
「うふふ……なんだか今の私みたい」
「俺なんかでいいの? 王子様が」
 冗談めかした冬馬の言葉に、ええとこちらも意識して軽い口調で朱音が答える。 と、ふと思い出したように彼女は服のポケットを探った。
「あ、そうだ……。これも、忘れ物です、冬馬さん」
「え? 鍵……?」
「銀の鎖に繋がれた鍵です。ガラスの鍵じゃあありませんけど」
 くすくすと笑いながら細い銀色の鎖が輪になり、小さな十字架と鍵が一つずつ 付けられたキーホルダーを朱音が冬馬に握らせる。困惑の表情を浮かべて冬馬は そのキーホルダーを目の前にぶら下げた。
「俺、こんなキーホルダーに見覚えないんだけど……?」
「そうでしょうね。私の家の鍵ですから」
「え?」
 しれっと言われて冬馬が間抜けな声をあげた。くすくすという笑いを消そうとは しないまま朱音が視線を冬馬の顔へと向けた。
「一旦受け取ったプレゼントを、突っ返すようなことはしませんよね?」
「酔ってるね、百合沢さん……」
「かも知れません。何だか、今なら何でも出来そうな気分です。
 あ、ただ、その鍵をどうするかは完全に冬馬さんの自由ですから。尋ねてきて くれなくても、恨んだりしません。別に束縛したくてそれを渡したわけじゃ、 ありませんから」
 ふうっと溜め息を付いて冬馬はその鍵をコートのポケットに落とし込んだ。
「身の危険とか、感じないの? こんなことしちゃって」
「冬馬さんになら、何をされても平気です、私」
 真顔でそう断言されて、冬馬は困ったような表情を浮かべた。どうも勝手が違う。 彼の困惑に気が付いたのか、朱音がすっと視線を足元に落とした。
「私みたいな女の子に好きになられると、迷惑ですか?」
「迷惑とかじゃなくて……。俺は、もう別に好きな人がいて、君にはこたえて あげられないから……」
「知ってます。私、冬馬さんが思ってるよりも多分ずっと冬馬さんのこと、 知ってますから。冬馬さんが私に愛情を向けるなんてこと、絶対に有り得ないって、 自分で断言できちゃうぐらいに。
 でも、それでも『私が』冬馬さんのことを好きなんだから、どうしようもない ですよね。気持ちって、理性でコントロールできませんから」
 一瞬、朱音が泣き出すかと思って冬馬が視線を彼女のほうへと向ける。だが、 顔を上げた彼女の表情は笑顔だった。
「言葉は悪いですけど、私のこと、お手軽に遊んで捨てられる玩具だと思って くれてかまいません。何か見返りを求めたりしません、私。
 冬馬さんのことが好きで好きでもう、どうしようもないんです。自分でも、 どこか壊れてるって、思います。迷惑だと思ったら、いつでも忘れてください。 あなたに言われない限り、私の方からはもう、二度とあなたの前に姿は現し ませんから」
「それで……君は幸せになれるの?」
 けおされたような冬馬の言葉に、くるりと半回転して朱音が彼から離れる。両手を後ろで組み、僅かに小首をかしげると彼女は口を開いた。
「何が幸せかなんて、きっと本人以外には分からないと思います。客観的には、 多分、私は不幸な女になるんでしょうね。でも、断言します。
 私は、四須崎冬馬という人のことを好きになれて幸せですって」
 にっこりと、何の陰りもない笑顔でそう言われ、冬馬は言葉を失った。とんっと 彼の胸に額を押し当てるようにして朱音は更に言葉を続けた。
「しつこいですけど、もう一回、言います。
 私は、あなたの事が好きです。例えあなたの心が他の女性によって占領されて いても。あなたが答えてくれなくても。あなたに忘れられても。
 私は、あなたの事を好きになれて、幸せです」
「…………ありがとう、って言うのも、変だな。
 本当に、いいのか? 俺は君を恋人としてみることはできない。君が俺の側に 居場所を作りたいなら、それは『友達』になるしかない。でもそれは……残酷 だろう?」
 そっと朱音の肩を手で押しやりながら冬馬がそう言う。好きな人と『友達』で いると言うのは……残酷で、辛いことだ。相手が誰かを好きになったとき、それを 応援してやらなければならないのだから。
「友達に、してもらえるんですか? 私のことを?」
 びっくりしたような朱音の言葉に、冬馬がびっくりしたように彼女の顔を 見つめる。みるみるうちに彼女の瞳に涙が溢れた。
「嬉しい……冬馬さんにそんなことを言ってもらえるなんて……」
「嬉しい? どうして?」
「だって、友達として、側にいてもいいってことでしょう?」
「友達だよ? しかも、絶対に恋人にはなれない」
「だって、今の私は『他人』でしょう? 『他人』よりは『友人』のほうが あなたに近いから。最初から、『恋人』にはなれないって分かっているから、 冬馬さんの友人になれるのって、私にとっては最高に近い幸せ……」
 台詞の後半は嗚咽によって掻き消された。どうしようもなくなって、冬馬は 朱音のことをそっと抱き締めた。
「泣かないでよ……。何だか、俺が君のこと苛めてるみたいじゃないか」
「ご、ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」
「ああ、謝らないでもいいよ。君は何にも悪くないんだから。俺が、もっと 器用になれたら良かったんだ。自分の心を上手くコントロールできれば」
 そう。もう手が届かない女を追いかけるのはやめればいい。今自分の腕の中に、 こんなにも自分のことを思ってくれる相手がいるのだから。
 だが、それはできない。もしもできるのであれば、自分も他人も傷付ける、 こんな恋を続けてはいない。
 泣いている朱音の背中をそっと撫でてやりながら、冬馬は自己嫌悪の 沼にはまっていた。やがて嗚咽がおさまった朱音がすっと彼から身を離す。
「ごめんなさい。ちょっと嬉しすぎて、興奮しちゃいました。行きましょ」
「そう、だな……」
「あの、今日も、泊まっていきますか? そうでないなら、反対方向だから、 冬馬さんに凄い御迷惑かけちゃうんですけど……」
 おずおずとした問い掛けに、冬馬は僅かに考え込んだ。わざと傷つけるような 台詞と口調を選んで答える。
「瑠佳の家に泊まったことは、ないからな。『友達』でそれは、まずいよ」
「あ、そうですね。恋人同士じゃないんですものね」
 あっさりとした朱音の返答に、冬馬は一瞬言葉をとぎらせた。
「……だから、家の前まで送ったら、俺は帰るよ。飲みに誘ったら、ちゃんと 送っていくってのは、まぁ、男として最低の義務だから」
「すいません。御迷惑を掛けます」
「ああ……別に、気にしないで」
 何を考えてるのか、よく分からないな。そんな事を考えながら、冬馬は 歩き出した。少し遅れてその後に朱音が従う。本当に嬉しそうな表情で。
 ともあれ、こうして冬馬と朱音の奇妙な関係が始まった。
 その持つ意味を、まだはっきりとは誰も知らない。
 誰も。 

作者後書き
 どうも、不幸の作家こと夢☆幻です。今回は「明るく楽しい恋愛もの」を 書いたハズなのに・・・(苦笑)。まぁ、結局はこれが私の文章ということ なんでしょうね。
 とりあえずこれが第一話なわけですが、第二話はこれとは直接は つながらない話になる予定です。今回サブキャラ扱いで名前の出なかった 土屋瑠佳ちゃんと大滝修司くんの高校時代のお話になるハズです。
 で、三話では今回名前だけ登場の水瀬恭子さんと春日美春くんが登場、 これでメインキャラがそろうことになります。気の長い話ですが、どうぞ おつきあいくださいませ。
 そうそう、各話のタイトルですが、元ネタはあります。内容に関係の あるものを選んでいるつもりですので、いろいろと想像してみるのもいい かもしれません。ちなみに、この話が何故「アクトレス・ドール」なのかは、 第六話で明かされる予定です(苦笑)。
 では、また。近いうちにお会いできることを願いつつ・・・。 
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原作:水無月時雨
文章:夢☆幻