「おっじゃっましまぁす」
妙に楽しそうにそう言うと瑠佳が靴を脱いで部屋へとあがる。苦笑を浮かべながら修司がその後に続いた。最後に朱音が玄関のドアを閉め、鍵とチェーンをかける。
「あの、散らかってますけど、その辺に適当に座っていてください。今、お茶を入れますから……」
「ストップ。朱音ちゃんはまずお風呂。身体冷えきってるんだから、ちゃんと暖まらなきゃ駄目じゃない。私たちのことは気にしないで、ゆっくりシャワー浴びてきなさい。これは命令」
「でも……いえ、それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます」
申しわけなさそうに軽く頭を下げると朱音がそう言う。苦笑を浮かべながら瑠佳がぐいっと修司の頭を抱え込んだ。
「心配しなくてもこいつはちゃんとあたしが見張ってるから。覗かせるようなまねは絶対させないから安心していいわよ。それと、私たちを待たせるのは悪いから、とか考えちゃ駄目だからね」
「はい。あの、お暇なようでしたら、その辺りにある本は勝手に読んでもらっても結構ですから。それでは」
もう一度頭を下げて朱音がリビングから姿を消す。周囲を見回して軽く修司が苦笑を浮かべた。
「その辺り、って、出しっぱなしになってる本なんてないんだけどなぁ。本棚の本、勝手に引っ張り出してもいいってことかね?」
「多分、そうじゃないかとは思うけど……これだけきちんとハードカバー本が並べられてると、恐くて手が出せないわよね。そもそも、専門書なんて読んだらあたし、確実に寝ちゃうし」
「おいおい、六法全書を全部暗記してるのがあたりまえ、何じゃないのか? 法学部ってのは」
「たまぁにそんな化け物もいるけどね。基本的には、どのあたりにどんなことが書いてあるのか大まかに把握してるだけよ。学力は暗記力じゃないもの。必要な資料を、必要な時に集められるようになるのが学問をするってことじゃないの? 教育学部の学生さん?」
瑠佳の言葉に、意外とまじめな表情で修司が肩をすくめる。
「学校で教えるのは学問でも技術でもなくて知識だからな。少なくとも、今の日本じゃ。
例えば、国語のテストで辞書を、歴史のテストで年表を持参するとカンニングになるんだぜ? 学校で教えるべきなのは、実際にはそういう資料を使いこなす能力だっていうのにな。単純に知識を集積して整理するだけなら、コンピューターの方が人間の何千倍も優れてるのに決まってる。そういうことを分かってない人間が上にいる限り、変わりようもないさ」
「あら、気弱ね。それなら俺が変えてやる、ぐらいは言えばいいのに」
「ガラじゃないよ。勝てないと分かってる勝負を挑むほど、無謀でも若くもないからな」
「なぁに今から枯れた隠居じいさんやってんのよ。二十代前半からそれじゃ、この先が思いやられるわね」
瑠佳の言葉に、もうこの話は終わりだとでも言いたげに修司が顔の前で手をひらひらと振る。もう一度視線を周囲に巡らし、少し感心したように彼は口を開いた。
「にしても、予想外にさっぱりとした部屋だな」
「そう、ね。朱音ちゃんの部屋なら、もっとふわふわしてそうな気がしてたけど。これなら、タキの部屋の方が女の子っぽいんじゃない?」
「それはお前、オレと朱音ちゃん、両方にとって失礼だぞ」
僅かに憮然とした表情を浮かべて修司がそう言う。くすっと笑うと瑠佳は肩をすくめた。
「あら、それはゴメンね。でもタキの部屋がぬいぐるみやら小物やらで埋まってるのは事実でしょ?」
「……彼女のくれたプレゼントを捨てたりしまい込んだりするわけにもいかねーだろうが」
「あはははは、何照れてんのよ。似合わないぞぉ、こいつぅ」
瑠佳のからかうような言葉に、ふんと修司がそっぽを向く。ふと思いついたような表情を浮かべて修司が口を開きかけた時、がちゃりとリビングのドアが開いて朱音が姿を現した。
「すいません、お待たせしてしまって」
「ちゃんと暖まった?」
「もう、瑠佳さんったら。小学生じゃないんですから」
ちょっと苦笑するような感じで笑うと、朱音がテーブルの上にティーセットを並べる。
「あの、紅茶でかまいませんよね? コーヒーや日本茶って、置いてなくて……」
「あはは、あたしもタキもこだわらないから。ね、タキ」
「ああ。でも朱音ちゃん、もしかして毎回、ポットで紅茶入れてるの?」
「ティーパックを使う時も有りますよ、特に一人の時には。でも、コーヒーと違ってティーパックはインスタントってわけじゃないですから、入れる時にかかる手間は大して変わらないんですけど。後片付けは、すごく楽なんですけどね」
そう言いながら、手慣れたしぐさでポットにお湯を注ぎ、朱音がソファに腰を降ろす。
「正直な話、ティーパックだと美味しく入れる自信、あんまりないんですよ。蒸らし時間とかがすごく微妙になってしまうので」
「ティーパックって、お湯を注げば終わりじゃないの?」
不思議そうな表情を浮かべて瑠佳がそうたずねる。くすっと笑うと朱音が小さく首を左右に振った。
「ティーパックて言うのは、ダストと呼ばれる一番小さなサイズに砕いた紅茶の葉をフィルターに詰め込んだものなんです。コーヒーと違って、抽出液を真空乾燥させた粉末じゃないんですよ。
葉が細かい上に、フィルターの重みがあるせいでうまく葉が踊ってくれないこともあって、美味しい紅茶を入れるのは結構難しいんです。もっとも、細かい味や香りの差にこだわらなければ関係ないんですけどね。後片付けとかも楽ですし、こうやっていろいろ準備しておく必要もないですから、気軽に楽しむのであればあんなに便利なものもないと思います」
そう言いながら、朱音がカップにいったんお湯を満たし、軽く回してから別の容器に捨てるという作業を繰り返す。不思議そうな表情を浮かべて修司と瑠佳が顔を見合わせた。
「えっと、もちろん、洗ってるわけじゃないよね?」
「ええ、もちろん。こうやってあらかじめカップを暖めておかないと、紅茶を注いだ時にびっくりしちゃうんです。ちょっとしたことなんですけどね」
微笑みを浮かべながら、朱音がポットを取り上げ、ゆっくりと円を描くように回してから上下に動かす。もうその行動に何の意味があるのかを聞くのを諦めたのか、修司も瑠佳も黙って朱音の行動を見守っていた。カップの上に置いたフィルターへと、ゆっくりと朱音が紅茶を注ぐ。
「どうぞ。ダージリンですから、癖はないと思いますけど」
「あ、ありがと。うーん、何だか緊張するわね」
「気軽に楽しんでもらえばそれでいいんですよ。作法がどうとか、入れ方はこうじゃなきゃいけないとかこだわるより、みんな楽しく飲める方が素敵ですもの」
そう言いながら、朱音が修司にも紅茶を渡す。一口含んで修司がちょっとびっくりしたような表情を浮かべた。
「へぇ……お店の紅茶みたいだな」
「うふふ、ありがとうございます。よかったらクッキーもどうですか? 自分で焼いたものですから、ちょっと味に自信がなかったりするんですけれど」
「朱音ちゃんの手作りクッキー? 欲しい欲しい。ちょーだい」
「瑠佳、お前、ガキじゃないんだから……」
「うふふ。今、持ってきますね。ちょっと待っていてください」
小さく笑って朱音が席を立つ。軽く肩をすくめると修司は瑠佳の方に不思議そうな表情を浮かべて視線を向けた。
「に、しても、瑠佳。オレはともかく、お前ぐらいの家柄だときちんと入れた紅茶って奴も別に珍しくないんじゃないか?」
「あら、それは偏見ってもんよ。お金持ちはみんな優雅な午後のティータイムを過ごしてるに違いない、とか考えてるんでしょ」
「悪うござんしたね、いかにも俗っぽい発想で」
拗ねたように修司がそう言って紅茶を一口すする。くすくす笑いながら、意外と優雅なしぐさでカップを取り上げ、瑠佳が一口紅茶を口に含んだ。
「別に、拗ねなくてもいいわよ」
「何を拗ねるんですか?」
クッキーを盛った皿を手に、朱音が姿を現す。何でもないと言うように軽く修司は肩をすくめてみせた。
「そう言えば、朱音ちゃん。随分紅茶入れるの上手だったけど、誰に習ったの?」
「え……?」
一瞬、動揺したように朱音が口篭る。怪訝そうな表情を浮かべた二人に向かって慌てて朱音が笑顔を浮かべてみせた。
「祖父です。厳しい人で、習ったと言うよりは、仕込まれた、と言った方が近い状態でしたけど。だから、高校に入るまでは紅茶って大嫌いだったんですよ。ちょっとでも気に入らないと、カップが飛んでくるんですから、中身ごと」
「あー、何て言うか、典型的な日本の父? でも紅茶っていうのがミスマッチな感じよね」
「うふふ、そうですね。小さな時は、ただひたすら恐い人でしたけど」
少し懐かしそうな表情を浮かべて朱音がそう言う。軽く首を左右に振ると、彼女は更に言葉を続けた。
「いなくなって始めて、どんなに好きだったのか気付かされることって、あるんですよね」
「あ……ゴメン」
「いいんです。私の方こそ、湿っぽい話をしてしまって……すみません」
「ええっと。話は変わるけど、朱音ちゃん、さ。余計なお世話かもしれないけど、今度冬馬に合ったら怒ってやった方がいいと思うな、オレ。確かにあいつは意味もなく女の子にまちぼうけさせる奴じゃないけど、それにしたって今回のは文句を言う権利が充分に有ると思うぜ?」
僅かに座り直すと意外とまじめな口調で修司がそう言う。ちょっと困ったように朱音は視線を下げた。
「瑠佳さんにも、似たようなことを言われました。でも、私は……」
「もう。朱音ちゃんらしいといえばらしいけど、さ。シズだって男なんだし、あんまり甘やかしてるとつけあがって手に負えなくなるわよ?」
「そう、でしょうか……?」
「まぁ、ね。奴も真面目は真面目だけど、女遊びをしてないわけでもないからなぁ。一応友人として弁護させてもらうなら、女の方が顔に魅かれて勝手に寄ってくるパターンがほとんどだけど、それでもきっぱりと断らずにずるずると流されちまうのは、ねぇ」
軽く肩をすくめながらの修司の言葉に、ますます朱音が俯いてしまう。
「でも……私だって、そういう人たちと、立場はあんまり変わらないじゃないですか」
「そ、そんなことはないだろう?」
慌てたように修司がそう言う。俯いたまま、朱音が小さく頭を振った。
「私だって、最初は一目惚れです。ただ街中ですれ違った、それだけのことで好きになったんですから。顔に魅かれたんじゃないなんて、言えっこないでしょう?」
「そ、そりゃ、でも……」
「別にいいんじゃないの? 今は、違うんでしょ、朱音ちゃん。最初の動機はどうであれ、大切なのは今どうなのかなんだから」
他人事のようにそう言いながら、瑠佳がカップを傾ける。朱音が答えるまでに、僅かな間があった。
「……はい」
相変わらず俯いたままで、朱音が頷く。表情は分からないものの、何故だか、泣き笑いのような表情である事が確信できて、修司も瑠佳も沈黙した。
灰色の雲が急速に空を覆っていく。もうすぐ雨になるのかな、と、喫茶店の窓際の席から空を見上げていた四須崎冬馬(しずさきとうま)はそうひとりごちた。
「ごめんなさい。待たせてしまったわね」
「ああ、いや……別に」
少しまぶしそうに目を細めると冬馬は水瀬恭子の顔を見上げた。いつもと同じように悪戯っぽい微笑みを浮かべていて、何を考えているのか読み取りにくい。
「でも、よかったわ。あなたは来てくれないかも、って思っていたから」
冬馬の正面の席に腰を降ろしながら、恭子がそう言う。怪訝そうな表情を冬馬が浮かべる。
「何故……? 俺が恭子の呼び出しをすっぽかした事なんてなかっただろう?」
「今までは、ね。でも、もう立場が変わってしまったもの」
やってきたウエイトレスにコーヒーを頼むと恭子はふっと真面目な表情を浮かべた。彼女が浮かべたひどく珍しい表情に、冬馬が僅かにたじろぐ。
「でも、あなたが来てくれたって事は、まだ少しはうぬぼれてもいいのかしら? あなたに愛想をつかされてはいない、まだ完全に振られたわけじゃないって」
「ちょ、ちょっと、待った。待ってくれ、恭子」
慌てたように冬馬が恭子を制止する。口を閉ざし、軽く小首をかしげて恭子が冬馬の顔を見つめた。戸惑いを隠せないまま、冬馬が言葉を選びながら口を開く。
「その、何だ、もしかして俺が勘違いしていたのか? 俺が、恭子に振られたと思っていたんだけど?」
「まさか」
一言の元に否定してみせると、恭子は小さく左右に頭を振った。
「どうしてそんな事を考えたの? 私があなたを振る? いつだって、怯えているのは私の方よ。私みたいなわがままな女は、いつ捨てられたっておかしくないんだって。
そんな時に、冬馬に新しい可愛い彼女が出来た、何て噂が耳に入ってくれば、覚悟を決めるしかないじゃない。今日はもう、冬馬が会いに来てもくれないか、会ってくれても直接別れ話を持ち出されるかのどっちかだろうって思っていたもの」
そう言いながら、ふっと自嘲にも似た笑みを恭子が浮かべる。
「それに、ね、電話で話して、そこで別れ話を持ち出されたらそれで終わりでしょう? それが嫌で、あなたがバイトに出ている時間を狙って留守電にメッセージを入れたの。もちろん、先約があったり、なくてももう私となんか会いたくないってあなたが思ってしまって直接会えない可能性も考えたけど、ね」
「恭子と会う以上に優先される先約なんて、ない」
少し早口になってそう言うと冬馬が視線を窓の外へと向ける。ちょうど降り出した雨が窓を叩き始めていた。そのせいで微妙に歪んで映った壁時計は、一時を少し回った時間を指している。
「本当に?」
「ああ」
「うふふ……ありがとう」
冬馬に向けたのか、それともコーヒーを運んできたウエイトレスに向けたのか一瞬判断しかねるタイミングで恭子がありがとうと言う。ちらりと冬馬が視線を恭子に向けると、もういつもの真意を読み取らせない悪戯っぽい笑みを浮かべた表情に戻っていた。
「雨が降ってきたわね。うふふ……外で待ちあわせにしなくてよかったわね」
「あ、ああ」
「どうしたの? 何か心配ごとでもあるの?」
悪戯っぽい笑みを浮かべたままで、恭子がそう問いかける。その表情もあってか、一瞬、心の中を見透かされたような気がして冬馬が慌てて首を左右に振った。
「いや。天気予報は晴だったろう? 傘を持ってこなかったから、どうしようかなと思ってね。この程度の雨なら、すぐにやみそうではあるけどね」
「どうかしら。来ない人を待つ涙雨になって降り続いたりして、ね」
「きょ、恭子?」
「うふふ。冗談よ。私は一応傘は持ってるけど、折りたたみ傘だから二人ではいるのはちょっと辛いわね。ああ、でも、うちに来てくれるなら、シャワーも浴びられるから関係ないかしら?」
からかうような口調でそういう恭子に、冬馬が軽く溜息をつく。
「そう、だな」
「決まり、ね」
カップに残ったコーヒーを飲みほし、恭子が伝票に手を伸ばす。ひょいっと一瞬早く伝票を取り上げると冬馬が軽く恭子を睨んだ。軽く恭子が肩をすくめる。
「ごちそうさま」
「ん……」
強まりも弱まりもせずにただ降っている雨を一瞬見やり、冬馬は軽く溜息をついた。
(待ってるはず、ないよな、そんなに長く)