わたしのすべてを破壊して・・・

そして、生まれ変わるの・・・

written by ARASHI NAKAMURA 

君色の空

 麗子は荷物を詰め込んだリュックを背負う。黙って出て行こうとしたが、玄関で靴を履いていると通り掛かった母親に呼び止められる。
「ちょっと、どこに行くの。まさかデート?」
「ううん、叔父さんとこ」
「そう…あまり迷惑かけないのよ。後でブーブー言われるの、母さんなんだからね?」
 曖昧に返事をして外に出る。夏の眩しさに世界が白くなる。一度頭を振って、次に元気良く駆け出した。チャリンコを走らせれば、哲也の家まではたかが三十 分。広い団地ももう迷わない。すんなりと階段の前に自転車を置くと、一階のブザーを鳴らす。 「おい、コラッ!。起きろぉー!!」
 扉をガンガン叩いて、ついでにゴンゴン蹴っ飛ばす。それでも反応がないので、しかたなくリュックを降ろして鍵を取り出した。
 ガチャリと鈍い音。真っ暗な家の中に入っていく。六畳間のドアを開けると、中央の山を跨いでテーブルに荷物を下ろした。クーラーのひんやりとした空気が 残っている。窓際に立つと、シャーとカーテンを開け放つ。
 まるでフラッシュを当てられたように目が眩む。窓を開けると、少しは埃臭さが抜けたようだ。温い風がふわふわと部屋の中へ流れ込む。
 哲也はまだ起きない。麗子は彼の横に立つと、すぅーと息を吸い込んで、体中の力を蓄える。縮込ませた体を一気に跳ね上がらせた。
「ダイビングボディィィプレェェス!!」
「グヘッ!?……う、うう…」
 悲鳴を上げると、哲也はもんどりうって苦しんでいる。麗子は布団を引き剥がした。
「ほ・ら!。起きなさいよ?」
「か、勝手に人の家に入ってくんじゃねえ…」
 渋々起き上がろうとしたが、途中でイタタとうめきながら再び布団に引っ繰り返ってしまう。麗子はデスクの上に腰掛けて呆れた視線を送る。
「情けないわね。いい大人がいつまで痛がってるのよ?」
「お前がもう少し軽ければいいんだよ」
「何よ、失礼ね。別に太ってなんかないわよ」
 そう言って足で蹴り飛ばす。哲也は首筋を叩きながら、真っ赤な目でギョロッと麗子を見上げる。
「それで、お前は勝手に人の家に入ってきて、いきなり起こして何の用だ?」
「今日から一週間、バイト休みなんでしょ?。どっか連れていきなさいよ」
「はぁ…こっちだっていろいろあるんだからな、そういうのは男にしてもらえ」
「哲也だって男じゃん」
「俺はちょっと違うの」
 哲也は起き上がって背伸びをした。麗子は両手を頬に合わせてちょこんと首を曲げる。
「もう、哲也ったらいけずなんだから。合鍵渡した仲だって言うのに…」
「アホ抜かすな。お前が勝手に作ったんじゃないかよ」
 そう言って哲也は廊下に出て行く。どうやらトイレのようだ。麗子はぐるりと部屋を見渡した。もともとは母たちの家族が住んでいた家だが、自分家が一軒家 を買って祖父母も同居したので、今は哲也が一人で暮らしている。麗子は本棚の前に立った。自称作家の卵、実質掛け持ちアルバイターの哲也は大きな本棚を 持っている。今まで書いた小説や、出した同人雑誌が大事に保管してあった。むちゃくちゃ神経質なので持っている本の数を覚えているそうだ。本棚にはファミ コンゲームも多い。ちょうど哲也が中高生の頃がブームの真っ盛りだったそうで、自分の場合は幼稚園の頃から男の子はやっていた。考えてみれば、四、五歳の 子供が一万円もする物をほいほい買ってもらうのって、結構恐ろしい気がする。 哲也は戻ってくると布団の中に潜ってしまう。麗子は枕元にしゃがみ込んだ。
「ちょっと、私の話聞いてたの?」
「だから、友達とでも遊びに行けって」
「友達とは七月中に遊びまくったのよ。うちの親もどこも行かないしさ」
「大体、その親にはなんて言って出て来たんだ?」
「別に。叔父さんとこ行くって」
「あんまり俺ん家に来るなよな。お前の母さんにブーブー言われるんだから」
「母さんは哲也にブーブー言われるって言ってたよ」
 爆発した頭を、哲也は両手で掻いて言葉を探している。詭弁を潰された大人は結構惨めだ。やがて拗ねた顔をして布団から顔を覗かせる。
「フン、そのうち彼氏とデートするのに、俺をアリバイに使ったりするんだろ?」
「違うわよ。デートに行くって言って、ここに来るようになるんじゃない」
「…仲の悪い姉弟で悪うございましたね」
「そんな話はどうでもいいから、早く起きなさいって」
 すると寝た振りをして哲也は沈黙する。麗子は彼の上に跨がって布団の上からぼんぼんと叩く。
「ほーら、起きろ!」
「あああっ!。もう子供じゃねえんだから、あんまり乗っかったりするんじゃない!」
「エヘヘ…欲情した?」
 麗子は哲也に顔を近付ける。彼はその鼻先を指で弾いた。
「誰がお前みたいな貧相なガキに欲情するか。図体ばかりでかくなって重いって言ってんだよ」
「そんな事言ったって、母さんが結婚した歳まであと五年よ?」
「…わかったよ。付き合えばいいんだろ?」
 布団から抜け出すと、着替えを持って洗面所に行ってしまう。哲也は母親の結婚の話になるとなぜか機嫌が悪くなる。あまり母さんの事は好きじゃないらし い。お正月とかも顔を出さないで、いつも自分が余ったお節を持ってここに来ていた。昔はお年玉稼ぎだったけど、歳が二桁になったぐらいからは家にいたくな いから早々とこの家に来てしまう。要するに自分も母親は嫌いだった。
 着替えて戻ってきた哲也は布団をしまうと、次にテーブルを隣の部屋に運び出す。麗子はうろうろと逃げ惑った。
「な、何を始めるわけ?」
「掃除するだけだよ。お前も手伝え」
 それも神経質のせいだからかどうかは知らないけれど、男の部屋の割りにはとても綺麗で、ゴミや洗濯物が溜まってたりはしていない。ま、他の男の部屋なん て行った事はないけれど、少なくとも自分の部屋よりは整理されている。哲也が掃除機をかけ、麗子は雑巾でガラスやテーブルの埃をぬぐう。
 何年前からあるかわからない掃除機をしまうと、哲也は引き出しを開けてお金を取り出している。麗子の位置から見ても十万ぐらいはありそうだった。
「お前、お金持ってきてないんだろ?」
「そうよ。さっき七月に遊びまくったって言ったじゃん」
 次のバイト代が入る日までの生活費だけを残して二人は家を出る。駐車場に、麗子の家のおさがりの銀の車が置いてある。麗子はさっさと乗り込んだが、哲也 はボンネットを開けて点検している。
「相変わらずまめだね。私ん家なんか、点検してるの見た事ないよ」
「神経質だからだよ」
 今日はもう拗ねたようなので、このネタは使わない方がいいらしい。クーラーを全開にして、哲也が自分で付けたCDデッキの電源を入れる。後ろの座席から リュックを取って、中からCDを出した。
「何をかけるんだよ?」
「いろいろあるよ。友達からも借りてきたし…」
「恥ずかしいのはやめろよ」
 適当な音楽をかけると車がゆっくりと動き出す。一曲目の一番が終わると哲也が行き先を尋ねる。
「それで、お前はどこに行きたいんだよ」
「海に行こ、海!」
 市街地を抜けて、車は海岸線を走る。道路は傾斜の上にあって、車から浜が見下ろせた。程よい人混みと、晴れ渡った空。少女をわくわくさせるには、充分事 足りる景色だった。
「わー、青い海!。うれしいなあ…」
「どこが青いんだ。工場の排水垂れ流しにしているようなところが…」
「今はしてないんでしょ?。それに生活排水だって流してんだから、工場ばっかが悪いわけじゃないじゃん。あー、でも沖縄とかだと、本当に海って青いんだろ うな。私、本当に青い海って、実際には見た事ないもんね」
「沖縄の海は透明じゃないのか?。でもさ、よく昔の物語とかで、山育ちの主人公が海を見て驚いてたりするけど、俺たちにゃ全然わからないよな」
「そう言えばそうよね。あーあ、文明って罪だなあ!。私たちから初めて海を見るよろこびを奪って!」
 徐行運転で駐車場に入る。車から降りると、一段と眩しさが頭上に広がる。海の香りが、鼻の奥にまで入り込んでくる。
「ねえ、どこで着替えようか?」
「別に、更衣場ぐらいちゃんとあるさ」
「うーん、一人だとちょっと…」
「だったら車の中で着替えろ」
「何よ、随分冷たいじゃないの」
「こちらとて暑いんだ。どっちにしろ早くしてくれ」
 麗子と別れて、哲也は海岸に出る。空には鱗状に雲が広がっている。適当な隙間を見つけてレジャーシートを広げる。世界地図の図柄のやつで、随分と昔の物 だ。だからドイツが統一してなかったり、チェコとスロヴァキアが一緒だったりしている地図である。四方に荷物を重しにして、哲也は中央に腰を下ろした。
 懐かしい海の香り。夏の海は何年振りだろう。たまに冬の海にふらっと散歩しにきたりはするが、冬の海はあまり香しくない。冷たく強い風は確かに磯の匂い を運んでいるのだけれど、やはり海の匂いがするのは夏だけなのだ。水平線に浮かんで見える外洋船。どこか心の底で響いている調べに酔いしれて、高い高い太 陽を手にかざす。
「おっ待た。何ボーとしてんのよ?」
 赤いビキニを身に着けて、麗子はうれしそうに立っている。彼が答えずに彼女を見つめていると、麗子はくるっと一回転した。
「どう?。なかなかやるっしょ?」
「まあ、なかなかね」
 哲也はそのまま寝っ転がってボケッとしていた。麗子は不服そうな顔で彼の横にしゃがむと、彼の体を揺する。
「ねえ、泳がないの?」
「俺はあんまり、海は好きじゃないんだよ」
「そんな事言ってると、一人で泳いできちゃうよ?」
「勝手に行けって」
「溺れたらどうするの?」
「ライフガードがいるから大丈夫だよ」
「ナンパとかされるかもよ?」
「その方が俺がお守りしなくて楽になるよ」
「フンだ!」
 中腹を紅葉でひっぱたいて、麗子はズカズカと波打ち際に向かっていく。哲也はその背中をなんとなしに見つめる。波に揉まれて、右に左に世話しなく動き 回っていたが、そのうちざっぱあんと大きな波が来て麗子の姿が藻屑と消える。哲也は右腕で目元を隠すと、そのまま体の力を抜いた。子供たちのざわめき、打 ち寄せる潮騒。ひさしぶりに聞く夏の海の賑わいは、どこか懐かしさを持って哲也の感性を郷愁へと誘う。体中の皮膚でジリジリと焼ける感覚を味わいながら、 哲也はつい、うとうとと気持ちを飛ばす。
「おい、なんか食わせろよぉ」
 気が付くと麗子が隣にしゃがんで駄々をこねていた。腕時計を見ると正午を少し過ぎている。哲也はあくびをしながら半身を起こすと、リュックから財布を取 り出した。
「ほら、これでなんか買ってこい…俺のもな」
 千円札を二枚渡す。麗子はひょこひょこと走っていった。だいぶ経って買い物袋を下げてくる。
「ほんともう、海の家ってどこも混んでるんだもん」
「すわって食おうなんてしたら、ますます時間がかかるよ」
 哲也は冷えた缶ジュースを首に当てている。真っ赤に火照った彼の体に、半ば呆れた視線を送る。
「一日中寝てたら、むちゃくちゃ日焼けすんじゃない?」
「別に泳いでたって日焼けするだろう」
「日焼け止め塗ってあげるよ」
 食事中なのにペタペタと塗りたくる。タオルで手を拭いて、麗子は再びトウモロコシにかぶりつく。哲也は体をくねらせた。
「やっぱベタベタしてやだな…」
「それはいいけど、後で私にも塗ってね」
 海はますます混んでいた。二人は並んで寝っ転がり、太陽の熱さをじりじりと吸い込む。
「あー、暑い。熱の方の熱いって感じだな」
「あー、あち…」
 麗子もだらんとしたまま動かない。顔にかけたタオルを外して、彼女の方に首を倒す。
「泳ぎに行かないのか?」
「一人で泳いでたってつまらないっしょ」
 腕を伸ばして、足を広げて。麗子が大の字になろうとすると、肘がぶつかって喧嘩になる。小競り合いは麗子が勝ち、哲也は頭の下で腕を組む。
「なんで海、嫌いなの?」
 空を見上げたまま、麗子がつぶやくように聞いた。哲也はタオルを折り畳むと、口元は開けるようにして再び顔を覆う。
「別に嫌いなわけじゃない。混んでるから嫌なんだよ。冬なんかは結構来るぞ」
「冬に海なんて来てどうするのさ?」
「人がいないんだよ。たまに散歩してたりするぐらいで。風が冷たくて、波が速くて。離れていても波の音が聞こえてくる。誰もいない浜辺…。海が自分の物に なったみたいで、灰色の空が重たくて。冬の海を見渡すとな、とても重いんだよ」
「重いのがいいわけ?」
「そういうわけじゃない。誰も知らない事って…秘密の事って、とても気持ちいいんだよ。特に身近なところにそれがあるとね。夏はみんな海に来るのに、冬の 海の美しさは誰も知らない。自分だけの世界ってさ…」
 秘密の世界。言葉の調べは甘美だけれど、その実は汚らしいような気がする。麗子にとって秘密と言えば、学校の先生の悪口だとか、誰それはあの人が好きだ とか、そういう類で、美しいなんて言葉には程遠い。自分だけが知っている、美しき秘密。そんなものが今の世の中に存在すると言うのだろうか?。
「…そういうの、いいねえ。…私も見つかるかなあ?」
「ん?…何が」
「私だけの、秘密」
「秘密なんて、誰でも持っているものさ。ただ、それは自分次第でどうとでも姿を変える。それを美しく彩れるか、それだけの違いなのさ」
「ふーん…」
 太陽が沈む。麗子が着替えて戻ると、哲也は運転席を後ろに倒して、ぐったりと横になっていた。ガチャガチャとラジオをいじっていると、哲也が腕を見て時 間を確かめる。
「飯はどうする?。食ってくか?」
「うん、そうしよう」
「じゃあ、母さんに電話しとけ」
 携帯を手渡す。アンテナを伸ばしていると、哲也が自分側の窓を電動で開ける。
「あっ、母さん?。私だけど、これからね…」
 そこまで言って、言葉が止まった。受話器の向こうで、母親が不思議そうに眉をしかめている。
「一週間くらい、旅行に行ってくるから…心配しないでね」
 携帯を切って哲也に差し出す。彼は体を起こさずにそれを受け取り、左手でぽんぽんと遊ばせる。怒るより先に思わず笑ってしまう。
「…何考えてんだ?」
「だって、家にいたってつまんないもん。生きてる限り、楽しく行かなきゃ」
「また俺の立場が悪くなるじゃねえか…」
「今さら何言ってんのよ」
 いまさら宿を探すのも面倒なので、今夜は車寝に決定する。近くのレストランで食事を済ませ、閉まろうとしていた売店に駆け込んでいろいろ買い込むと、防 波堤の上を歩きながら車に戻る。夜空の下で孤独な海は、行ったり来たりを繰り返している。
「ここって海からだいぶ離れてるじゃん。なんで防波堤があんの?」
「大津波が来た時のためだろ。後は散歩するようとか…」
「そう言われれば、川の側って必ず高台になってサイクリングロードとかになってるもんね。政府も意外とお洒落じゃん」
「他に使い道がねえからだろ…」
 ラジオを聞きながら、ポテチをかじる。哲也は先程と同じ様に、座席を倒して寝ていた。
「ねえ、寝ちゃったの?」
「なんだよ、寝れないなら家に帰ればよかったじゃねえか?」
「ラジオも聞き飽きたんだもん。…ねえ、海に行こうよ」
「海?。昼間散々いたじゃねえか」
「昼と夜とじゃ違うのよ。誰もいなくて、それに…」
 ラジオの電源を切る。プッツンという断末魔の後、響いてくるざわめき…。
「ほら、こんなところまで波の音がする」
 海岸に降りると波打ち際に立つ。麗子は哲也の足元にしゃがみ込んで、寄ってくる波に指を洗う。麗子は目を閉じて耳を澄ました。
「波の音って、こんなに大きいのね。知らなかったなあ…」
 哲也は大きく息を吸い込んだ。水平線の向こうの微かな明りは、果たして海の先の国なのか…体のリズムが段々と波に寄り添っていく。そのシンクロを妨げる ように、麗子が立ち上がった。
「ねえ、ほら。そこにいるのって、カップルじゃない?」
「ん…そうだな」
「なんかイチャついちゃってヤダなあ。…ねえ、キスしてない?」
「…してんじゃないの」
「もしかして、エッチすんのかなあ?」
「知らねーよ」
 麗子が悪戯っぽい目線で哲也を見上げる。そして笑いながらカップルに背中を向けた。哲也も横に並んで歩いていくが、いつまでもくすくすと笑う麗子に臍を 曲げる。
「何がおかしいんだよ?」
「だって哲也ったら、保健の時間にエッチな質問されて困ってる先生みたいなんだもん。アハハ…むちゃくちゃおかしい…」
「そんなの、誰だって困るだろうが」
 麗子は一歩前に出ると哲也の方に振り返る。すました顔で彼を詰問した。
「そんなの嘘よ。自分だってそういうので頭が一杯の時があったんだから。学校の先生で、セックスした事が無い人なんていないんだから、そんなんでガミガミ 言ったりするの、絶対おかしいよ」
「子供がそういう事を言うんじゃない」
「ほら!。哲也だって同じだ。自分が十四の時はどうだったのさ?。エッチしたくてしょうがなかったんでしょ?」
 哲也は頭を掻いて海の方を見ている。麗子はますます笑って、哲也と腕を絡ませる。
「ねえ、キスする時って、どうなのよ?」
「キス?。しばらくしてないからな…」
「初めての時って、凄いドキドキする?」
「してみりゃいいだろうが、俺に聞かなくても」
 麗子が軽く走り出す。ちょうど砂浜の境界線を踏みながら、片足だけが波に飲み込まれる。哲也はゆっくりとその足跡を踏んでいく。
「またごまかした!」
「別にいいだろ…。キスぐらい、自分で試して見ろ」
「ふふ、哲也ったら結構純情なんだ…キャア!」
 振り返ろうとしてビーチサンダルがもつれた様だ。麗子は見事にこけてしまった。哲也は鼻を笑わせる。
「まったく、何やってんだか…」
「ちょっと、そんなのんびりしてないで、走って助けに来なさいよ」
「はいはい、わかりましたよ、お嬢さん」
 哲也が差し延べた手に麗子がつかまる。しかし彼が半腰になった瞬間、体中の力を集中してその腕を引っ張る。彼の体が落ちてきて少し息が詰まったけれど、 タイミングよく波がやってきて、二人の体を通って戻っていく。
「お前なあ…」
「ふふ、キャハハ…」
 麗子は哲也の下から抜け出すと、サンダルをぬいで両手で持つ。そして海の方に入っていった。哲也は波の中であぐらをかきながら麗子を見ている。膝頭まで 海に浸かった彼女は月の下で踊り、時折やってくる波が彼女の腰をふわっと飲み込む。やがて麗子はこちらを向くと、サンダルを両方、哲也の背後に投げた。
「哲也もおいでよっ!」
「俺はなあ、着替え持ってきてないんだぞ?」
「そんなの明日どっかで買えばいいじゃん!。もう濡れちゃったんだから変わんないよ!」
 舌打ちしながら、哲也は海の中に入っていく。そして麗子におもいっきり波をかける。
「オラオラ、ぼさっとしてると風邪引くぜっ!」
「キャッ、やったな?」
 麗子もすぐさまやり返す。しばらく無心で水をかけ合った後、海から上がって辺りを歩く。シャワーは使えないから、何か水を探しているのだ。やがて店先に ホースを見つける。
「いいか、水出すぞ?…それっ!」
「キャー!!、冷たいっ!」
 海の水は冷たいけれど暖かかった。正真正銘の冷たい水が麗子にかかる。やがてTシャツを脱いで上半身を剥き出しにする。哲也は水をかけながらも表情が固 まった。
「…いきなり何やってんだ?」
「どうせ暗くて見えないっしょ?。ほら、もっとかけてよ!」
 くるくる回りながら、水飛沫に体を任す。哲也にはまるで水の妖精が暗闇で踊っているかのようで、誰もいなくなった砂浜に麗子のはしゃぐ声だけが響きわ たっていた。その後は車に戻って、ぐっすりと眠った。
 次の日は近くのスーパーに行って、麗子が哲也の服を探す。ブーブー言いながらも、若者っぽい柄のTシャツに哲也は身を包む。コインランドリーに洗濯物を 突っ込んで、その間に早い昼食を取った。
「あと五日間もどうすんだよ。金だってそんなにねえから、宿屋にだって毎日は泊まってらんねえぞ?」
「べっつに、そんなの車でいいじゃん。次はさあ、温泉に行かない?」
「海の次は山ですか?。贅沢なお嬢さんだこと…」
「それでさ、さっき立ち読みしたんだけど、信州の方に行こうよ。山の上の温泉にさ」
 これからの気苦労を考えると哲也は次の目的地など頭に浮かばない。願わくば一週間、自分の家で寝ていたいのが本音だ。
「お前な、高速だってタダじゃないんだからな。ガソリン代だって幾らかかると思ってんだよ?」
「いいじゃん、下でいいからゆっくり行こうよ。二日ぐらいかけて。それで温泉に泊まって帰ってくれば、ちょうど一週間ぐらいになるっしょ?」
「何が悲しゅうて、太平洋からそんな内陸くんだりまで行かなくちゃいけないんだ?。中学生なんだからな、もっと遊園地とか、そういうとこにしようぜ。運転 する方の身にもなってみろ」
「そんなの友達とだって行けるもん。やだあ、温泉行くのぉ、日本アルプス見るのぉ!」
 麗子はじたばたと駄々をこねる。そんな事を言われても二日も運転させられるのは自分なのだ。結局哲也は、なげやりになって返事をする。
「はいはい…わかりましたよ。その代わり途中でガス欠したら、二人で押して帰ってくるんだからな?」
 そんな哲也の愚痴も耳に入らず、麗子は座席から飛び上がった。
「やったあっ!。早速あの旅行雑誌買ってこよ。ねえ、千円ちょうだい」
「…百円のメモ帳に書き写してこい」
 しばらくして二人は車に乗り込む。後部座席には着替えやらお菓子やら、麗子がやたらめったら置いている。車が動き出すと麗子は細い缶ジュースを二本取っ て、車に備え付けてある冷却機に放り込んだ。
「お前、そんなにジュース買ってどうすんだ?」
「一本五十円でセールしてたからさ。飲む分だけ冷やせばいいでしょ?」
「…お前はいい嫁さんになるよ、きっと」
 車は国道を進んでいく。途中で首都高に入り、段々とノロノロになる。CDも聞き飽きて、麗子がラジオに切り替えた。
「ねえ、まだ着かないの?」
「馬鹿言ってんじゃねえ。まだ東京も抜けてないんだぞ」
「どっか止まろうよ。おなか空いたぁ」
「首都高にパーキングエリアはありません」
「フン、拗ねてやる…」
 麗子は頬を膨らませて、ひっきりなしにラジオのチャンネルをいじっている。結局は歌ばかり流れているので、CDと大して変わらないのだ。
「ねえ、なんか暇潰しないの?」
「外の景色でも見てろ」
「ビル見てたってしょうがないわよ。哲也、なんでゲームボーイ持ってこないのよ?」
「お前なあ、旅行にゲーム機持ってきてどうすんだよ」
「だって暇なんだもん…」
 座席を少し後ろに倒して、麗子は前方を見渡す。夕焼けに照らされた車が、全校集会の生徒のように綺麗に並んで走っている。哲也が話を続けた。
「旅行っちゅうのはな、行き帰りの道だって含むんだ。景色を見て、空気を吸って。空気ってのは同じようで違うもんなんだ。その途中なんかでゲームなんて やってちゃいかんよ」
「そんな事言ったって、暇なものは暇なのぉ」
「そういう心に余裕のない奴がな、道端に咲く花にも気付けないんだよ。お前、今年の梅雨に紫陽花見たか?」
「紫陽花なんてどこに咲いてるのさ?」
「アホ言え。俺の団地のまわりにいくらでも植えてあるじゃないか。名所だけ巡って帰ってくるのはな、ただの観光なんだよ。一つの場所をゆっくりと歩き回っ て…自転車で自分の住んでいる町を出れば、それでもう旅行になるんだぞ?」
 麗子の頬から空気が抜けて、やけに冷静な瞳がきょろきょろと高速道路で花を探す。遠くに見える緑の山が、白い空の中でぽっかりと浮かんで見える。山を 削った道路で、自然を探すというのも馬鹿らしい。麗子は矛先を変える。
「そういう哲也はどうなのさ?」
「俺か?。俺が中学や高校の暇な日曜日なんざ、自転車に乗ってぐるぐると散歩したもんだ。最初の目的は古本屋や中古ゲーム屋回りだったけれど、知らない町 を地図も無しにさ、細い裏道やら、川沿いの砂利道に沿って走ってると妙に気持ちいいんだよな。…中三の時だったかな、ただ国道沿いに突っ走ってたら市内か ら出ちまってさ、家まで帰るのに三時間ぐらいかかっちまった事もあったっけな」
「それ、聞いたなあ。去年、自転車を買い替えた時におじいちゃんが言ってたよ」
「確か午後から出掛けたからな。飯の時間になっても帰ってこないから、家中大騒ぎになっちまったんだよ」
 合流地点で車線が広くなり、少し車の流れが早くなった。トンネルに入って、哲也の横顔にオレンジの斑点が流れていく。
「旅行ってのはさ、新しいものを発見したり、違うものに触れたりするためにするわけでさ、そう考えたら海外旅行なんて馬鹿らしいのよ。自分の県内どころ か、市内だって行った事のない場所はあるわけだしな」
「休むためってのもあるんじゃない?」
「ハハハ…休むんだったら、三日三晩何もせずに爆睡でもしてりゃあいいんだよ」
「それを言ったら、身も蓋もないじゃん…」
 麗子は視線を窓の外に移す。先程目にした山の中に入ったのか、両脇を山に挟まれている。やがて東名道に切り替わると最初のパーキングエリアに入る。車が 止まると、サイドブレーキをかける前に麗子がドアを開けて外に飛び出した。
「あー、気持ちいい!」
 思い切り背伸びをする。深呼吸をすると少し噎せた。体中の筋肉がめりめりと音を立てて、沈む夕日を惜しむように目一杯太陽を吸い込む。
「やっぱずっとすわってると体が鈍っちゃうよなあ…」
「ほら、飯食いに行くぞ」
「え?…まだ六時にもなってないじゃん?」
「飯時にレストランなんか行った時にゃあ、何時間かかるかわかりゃせんわ」
 お店に入ると哲也の言う通り、時間のわりには人が多い。見本をざっと見渡した後、食券機に並ぶ。
「麗子は何にするんだ?」
「うんとね、トンカツ定食」
「トンカツ?」
 哲也は思わず彼女の方に振り返る。麗子は首を傾げた。
「何か変?」
「そういう訳じゃないが…女が大層な物を食うな、と…」
「たまにはちゃんとしたもの食べないとさ。それに私、旅館とかで出る変な懐石料理って苦手だからさ」
 窓際の席にすわる。見える景色は駐車場だった。ぼんやり見ていると、段々と車が混んでくる。レストランの席も埋まってきた。
「麗子さ、どうでもいいけど懐石料理ってのは、普通茶会の前に出す簡単な料理の事を言うんだぞ」
「あれ、そうなの?。でもまあ、今時昔と同じ意味で使ってる日本語なんて珍しいんじゃないの?」
「そりゃまあ、そうだけどさ…」
「でも、だったら本当はなんて言うの?」
「うん…御膳料理とか、本膳料理とか…」
 哲也がコップの水を口に運ぶ。苦いのであまり麗子は飲む気になれない。
「何それ、本膳料理だなんて初めて聞くよ」
「まあ、言語なんてそんなもんか…」
「だけどさ、修学旅行とかの料理ってすっごいマズイじゃん。なんであんなもん食わせるのかなあ?。旅行にまで行ってあんなの食べたくないよ」
「お前、そんな修学旅行なんてな、安い金で何百人も人が来るんだ。まともに作るわけなんてないだろう」
「そんなら高くてもいいからいいもの食べたいよ」
「だったら私立にでも行けばいいじゃ…」
「トンカツ定食とたぬきそば、お待たせしました」
 やっと注文の料理が届く。哲也の前にトンカツが置かれた。
「すいません。逆です」
「え?…あ、失礼しました」
 麗子が箸を割る。哲也を見ると笑いを堪えていた。ジトッと彼を睨み付ける。
「…何よ」
「いーや、別に…」
 再び車に乗り込む。高速を降りると段々と道幅も狭くなる。車の流れも無くなってきて、辺りは既に真っ暗になっていた。食後から寝ていた麗子が目を覚ま し、途端に騒ぎ始める。
「車、いないねえ」
「そりゃそうだ。何時だと思ってるんだ?」
「うーんとね…十時三十八分」
 馬鹿な答えは無視をして哲也は運転を続ける。しばらくして交差点で車を止めた。
「どうしたの?」
「いや、どっち行くのかわからなくてな…」
 天井のライトをつけて地図を眺めている。暇なので麗子は外に出た。まわりは全て田圃である。車の気配は全く無い。それどころか明りさえ見つからなくて、 自分たちの車と信号以外に光るものは無い。麗子はその場にしゃがみ込む。乾いた横断歩道を手で払うと、突然仰向けに寝っ転がった。
「ねえ、哲也!。哲也ったら!」
 彼は気付いてくれない。やがて地図を畳んで、それからやっと気付いた。電動の窓がゆっくりと降りていく。
「…何してんの、お前?」
「ねえねえ、写真撮ってよ」
「こんな真っ暗じゃフラッシュ焚いたって写らねえよ」
「ふーんだ、ケチ…」
 麗子を乗せて再び道を行く。ぐるぐると坂を登って、やっと目的の場所に着いた。しかし、真っ暗な場所に車が止まっただけである。麗子が眉間に皺を寄せ る。
「ねえ、ここなの?」
「間違いないと思うが…旅館ももう、明りを消しちまったらしいな」
「…どうするの?」
「車で寝るしかないんじゃない?」
 そう言って哲也は椅子を後ろに倒す。麗子はとんでもないと言う顔でじたばたと暴れた。
「え〜そんなぁ!。温泉に来て車に泊まるなんて信じらんないっ!」
「うるさいなあ、黙って寝ろよ」
 やがてピタッと静かになった。哲也は疲れていたのですぐに朦朧となる。麗子はただ座席にすわってぺちゃくちゃしゃべったり、ラジオを聞いていたり、ボリ ボリお菓子を食べていればいいだけだが、運転というのはそれなりに疲れる。しかも丸一日運転していたのだ、この際はどこで寝るかよりも、早く寝ると言う方 が哲也には重要なわけである。すると今度は体を揺らされた。しばらくは放っておいたが、あんまりしつこいので体を起こす。
「俺はもう、疲れてるんだから、寝かしてくれよ…うん?」
 明るい。フロントガラスの向こうに光が広がっている。旅館の玄関に明りがついているのだ。そして麗子の顔を見ると、彼女はにっこりと笑った。
「へへ、起こしてきちゃった」
 旅館の人間に何度も頭を下げ、お金を渡して部屋に案内される。布団は自分たちで敷くと断って下がってもらう。テーブルを端にどかして布団を引っ張り出 す。哲也はどかっとすわりこむと靴下を脱ぐ。
「はあ、疲れた。昨日は布団で寝れなかったからなあ…」
「一日ぐらい、どうってことないっしょ?」
「そりゃそうだがな、やっぱり人間は布団で寝なくちゃ。それより麗子、お前部屋一緒でよかったのか?」
「その方がお金かかんないっしょ?」
 別にそういう意味で聞いたわけではないのだが、これ以上言うとからかわれるだけだからやめた。取り敢えず浴衣にでも着替えようかと部屋を見回している と、麗子が立ち上がって腕を引っ張る。
「ねえ、早く行こうよ」
「はあ?…どこに?」
「そんなの温泉に決まってるっしょ?」
「お前なあ、こんな時間、閉まってるに決まってるだろ」
「外の露天は二十四時間だって、さっき旅館の人に聞いたもん。ね、早く行こうよ」
「勘弁してくれ、俺はもう疲れた。一人で行ってこいよ」
「そんな、こんな真っ暗で痴漢にでも襲われたらどうするのよ?」
「知らん。俺は寝るったら寝る」
「やぁだぁ。温泉行くの、入るのぉ!」
「…も〜、お前は幼稚園児か!?」
 結局は一緒に行く事になる。二人で浴衣に身を包んで、タオルを持って廊下を歩いていく。非常灯しかついていないのでとっても暗い。内鍵を開けると庭の中 に渡り廊下が続いている。その先に更衣室らしきものが見えるが、屋根と更衣棚があるだけである。
「…混浴か?」
「そんなの、見てわかるっしょ?」
 哲也は浴衣の下で腰にタオルを巻いて、それから素早く浴衣を脱ぐと振り返らずに温泉の中に駆け込む。麗子も全身にタオルを巻いて入ってきた。そして哲也 の横にすわる。
「あ〜、気持ちいい。やっぱ日本人は温泉よねえ」
 薄暗い裸電球が今にも折れそうな木の棒にくくり付けられている。温泉には天井はなく、あとは申し訳なさそうな月明りだけだった。ちらっと横を覗くと、麗 子のすらりと細い腕が、新品の陶磁器のような輝きを持って若さを見せつけている。顔をゆすぐと目を閉じて、首をかっくりと哲也の肩に乗せて。まるで赤ん坊 がぐっすりと眠っているかのようだった。
「あ〜あっ!…熱さが五臓六腑に染み渡るぅ〜」
「変な表現…」
 哲也も同じ様に目を閉じる。頬をかすめる湯気の流れ。全身の力を抜くと、じんじんと伝わってくる熱気が毛細血管の隙間にまで入り込んできている。内臓も じわじわと温まって、まさに麗子の表現通りになりそうだった。
「ふう…」
 思わず哲也も溜め息を漏らす。しばらくそのままよどんでいると、段々と瞼が重くなる。こんなところで寝てしまったら大変なのだが、体の摂理は言う事を聞 いてくれない。するとそんな眠気を覚ますように、じゃばじゃばと波の音。
「れ、麗子!?。お前何やってんだ!?」
「…泳いでるだけじゃん」
 泳いでるのはいい。裸なのだ。麗子は構わず泳ぎ続ける。あちらとこちらを行ったり来たり。ターンのキックだけで泳いでいるのだが、その時にちらっと胸が 覗く。
 哲也は頭を岩場に寄り掛ける。麗子の波が定期的に襲ってきて、顎の下をさらっていく。薄暗い闇の中で、浮かび上がるような麗子の背中、そして腰にかけて のライン。肩甲骨がくっきりと盛り上がって、しかしお尻は出ていない。まだまだ子供の体で、胸の膨らみもそうだ。けれど白い肌の輝きは、まさに人間の若さ を誇示してやまない。麗子が平泳ぎのような格好でこちらに流れてきた。
「何見てんのよ、エッチ」
「そんな体で生意気言うな」
「フンだ。見てなさいよ、五年後に後悔しても遅いんだから…」
「何を後悔するんだよ…」
 浮いていたタオルを引き寄せると、体には巻かずに膝の上で遊ばせる。哲也の横に並んで、肌がくっついた。哲也は初めてドキッとする。
「ひさしぶり…旅行になんて来るの」
「…そうだったのか?」
「この前はいつだろ…十歳になる前かな、両親と、おじいちゃんとで京都に行ったんだ」
「京都か…高校の修学旅行で行ったなあ」
「修学旅行、京都だったの?。うわー、ださぁー」
「そんな事行ったって、公立校入れば千葉なんてほとんど京都だぞ?」
「ひゃー、絶望!。うちの親、私立になんて行かせてくれるわけないし…」
 両手で交互に、肩にお湯をかけている。肩までつかればいいのにと思ったが、綺麗な肩を見れるのもよかったので哲也は黙っていた。
「うちの親、最近仲悪いしな。きっと一緒に旅行なんて行きたくないのよ。まったく、だったらなんでこんなに早く結婚しちゃうんだろうね?」
 哲也は答えない。お前を身籠もったからだとは、さすがに言うわけにもいかない。母親は堕ろせと言ったし、自分も言いはしなかったが、結婚しても続かない だろうと思っていた。しかし姉は決心しきれず、堕ろすのは絶対に許さんと言った父がむりやり相手に結婚させたのだ。晩婚の父は既に五十過ぎで、早く孫が見 たかったのだろうと今は思う。そして退職金に、それまでの貯金を使い果たして一軒家を買った。しばらくして母は亡くなり、姉と旦那は自分の予想通りに仲は 冷め、結局父だけが麗子をかわいがった。その父が体も弱り、入退院を繰り返すようになると、今度は自分の家に麗子は来るようになった。
 今回も恐らく、姉と旦那が大喧嘩でもして、それで麗子は逃げてきたのだ。一人娘が勝手に旅行していると言うのに、自分の携帯に連絡一つ入れない。自分の 事で精一杯…いや、自分一人の事しか考えちゃいないのだ。それはそれで悲しいし、麗子もかわいそうだが、何より父が不憫だ。老い先短い人生を幸せに暮らし てほしいのだが、しかしいい年して一人食うのが精一杯の自分だって、充分親不孝なのである。だから姉にも何も言えないから、極力避けているのだ。
 父が死ぬまでかな。哲也はなんとなくそう思った。麗子は恐らく旦那の方に引き取られるのだろう。麗子と過ごせるのもそんなに長い事ではないと感じると、 楽しそうな顔を見ても心に刺さる。
 バシャッ!。顔に水をかけられた。目をパチクリしていると、麗子が指を指して笑う。
「何よ、ボケッとしてるから水かけたのに、それでも反応しないんだもん。どうしたの?」
「あ、ああ…」
 哲也は言葉に困ってうつむいてしまう。それが深刻な顔に見えたのか、麗子も神妙な顔付きで下から覗いてくる。
「な、何よ突然…キャッ!」
 ビシャッ!。お湯の中から手をかきあげて、下から麗子の顔面を直撃した。麗子は背中を向けて咳き込んでいる。白い背中に優しく水をかける。
「ハハハ…引っ掛かってやんの」
「も〜、やったわね!?。鼻に入ったじゃない。それっ!」
「だあっ!?。ハハハ…悪かったよ、やめろって…」
 深夜だというのにバシャバシャ騒いで、延々と長風呂する。部屋に戻ると二人とも、子供のように爆睡した。
 夕方というには少し早い時間、二人は旅館の庭を散歩していた。それほど広いところでもない。服がないから、二人とも浴衣で旅館のサンダルを引きずってい た。小さな池の橋の上で麗子は手摺に寄り掛かって、雲の流れる空を見上げた。
「う〜ん…何か信じらんないぐらい退屈だな…」
「…だったら来たいなんて言うなよ」
「そうじゃなくて、そういう意味じゃなくて…普段だとさ、朝起きて学校行って、部活して友達と遊んで、帰ってきたらテレビ見て勉強して、それで寝ちゃう じゃない。自分の生活しているようで、実は決められた役割で動いているんだよね。だけど今は、本当にする事がない。いつもはやりたいことができない!とか 言ってても、いざ何をやってもいいよとなると、やりたいことなんて何もないんだよね…変な話だけど」
 軽くあしらったつもりが思いがけず深い話になって、哲也は無精髭を撫でながら返す言葉を考える。赤く染まる山が、燃えるような錯覚を覚えさせた。
「それは結局、普段決められた役割だけを演じていて、自分で何かをやると言う事が身に付いていないからでさ、それに自分のやりたいことってのを、ちゃんと 考えている人間もそんなにいないさ」
「そうだなあ…私のやりたいことか…」
 池の中では、延々と泳ぐ鯉の群れ。彼らは何を考えて泳いでいるのか、麗子は視線を落として、ただその流れに目を任す。哲也も隣に並んで柵に寄り掛かる。 ひゅーと、足元を風が走る。浴衣の裾を押さえた。
「いい風だな…」
 そんなつぶやきにうなずく必要もなくて、流れる雲、林の香り、そんなものが幸せで、麗子は思わずはしゃぎたくなる、そんな気持ちだった。
「おや、これは昨晩お着きのお客様で…」
 旅館の女将が通り掛かった。二人に向けて頭を下げる。麗子も軽く振り返る。女将は自分たちをじろじろと見ている。
「…新婚さんでいらっしゃいますか?」
「いえ、違います」
「それは失礼致しました。それでは…」
 女将は旅館の方へ帰っていく。哲也は腰を捻って背骨を鳴らした。
「そろそろ行くか。ん?…どうした?」
 麗子は池の方を向いたままくすくすと笑っている。哲也は首を傾げる。
「何だよ、何笑ってんだ?」
「うふふ…何でもない!」
 そう言って麗子は哲也の腕に組み付く。戸惑う哲也を引っ張るように歩いた。哲也を見上げると、何がなんだか、わけのわからない、そんな表情だ。麗子はに まっと笑う。
「いいじゃない、腕組むぐらい。新婚でしょ?」
「…だから、大人をからかうんじゃないって言ってるだろうが」
「やあねえ、哲也ったら照れちゃって…」
 そのまま麗子はぐいぐいと宿の外まで引っ張っていく。急な坂を、下駄をがらがらと言わせて下っていく。
「おいおい、どこにつれていくつもりだ?」
「いいじゃん、どうせやることもないんだし、下の方に商店街があったっしょ?」
 十分程歩くと車道に出る。道の脇にはぽつぽつとお店が立っていた。麗子がきょろきょろと辺りを見回す。
「なんか、寂れてるねえ。普通はもっと、びっしりとお土産屋があったりするのに…」
「寂れてるって、昔からこうなんじゃないの。ここは観光地って程でもないんだろ」
 左に見えた大きな土産屋の方に歩いていく。麗子がどてらの裾を引っ張った。
「お金頂戴よ」
「…はいはい」
 千円札を三枚渡すと、麗子はたったと店の奥へ駆け込んでいく。店先が喫茶のようになっていたので、哲也はコーヒーと鯛焼きを買って席に着く。
「おみやげねえ…」
 両親に買っていくとは思えないから、友達にでも買うのだろうか。社会人でもあるまいし、友人に土産なんて哲也の感覚から言えば馬鹿げている。自分の場 合、修学旅行で部活の後輩に買っていったのと、あとは高校の時にいた恋人ぐらいにだ。そう言えば自分もその娘と別れてからは、恋愛とは疎遠な生活を送って いる。
 まちまちに通る車に目をやりながら、ひさしぶりに昔の恋を思い出す。今もまだ二十歳の後半だが、それでもあの頃は若かったなんて、まるで老人のような想 いだ。
 自分だけに精一杯で、相手の事を思いやれず、どんな些細な事でも自分の望まない行為は許せなかった。モノを欲しがるようにしか、恋愛が出来なかった。全 てが自分のもののようで、それでいて生涯で初めての、自分と対等な存在。とまどいと失敗の繰り返しが、お互いの距離を確実に裂いていく。そんな葛藤を抱え ながら、二人で見つめ合う息苦しさ、あれこそがまさに恋愛だったのだろう。結局はその息苦しさに耐えられず、言い出したのは彼女だったけれど、自分も心の うちではもう終わりなのかな、そんな予感をしていた。 何度も好きと言わされた。彼女を本当に好きだったかなんて、今でもわからない。ただ、恋愛をしてい たんだなあ、そんな感慨だけが残っている。
「あ〜、ずるいっ!。一人だけそんなもの食べて!?」
「別にお前も買えばいいだろ」
「じゃあ、お金頂戴よ」
「…お釣りは?」
「ちゃんとぴったし使ったから、残ってないよ」
 しばらくお茶をしてから宿へ戻る。麗子は大きな買い物袋を下げていた。哲也が気を利かして持ってやろうと言ったのだが、なぜか彼女は渡さなかった。
「…何買ったんだ?」
「ふふふ…ひ・み・つ!」
 急に駆け出して一人で先に帰ってしまう。哲也は呆然としてしばしそこに立ち尽くした。
「…そんなに何が楽しいんだ、あいつは…」
 哲也が部屋に戻ると、麗子は座布団にすわってボーとしている。哲也は小説を取り出した。不乱に読んでいたが、ふと気付いて顔を上げる。麗子はぺったりと すわって、うつろな視線でこちらを見ている。視線が合っても何も言わない。哲也も黙っていた。
「…ねえ?」
 どことなく甘ったるい声。麗子にもそんな声が出せるのかと、哲也はなんとなく感心する。表情を緩めて彼女に答える。
「ん?…何だ?」
「私って、そんなふうに見えるのかなあ?」
「そんなふうって…」
「そんな、大人に見える?」
 先程旅館の人に言われた事か。哲也は単行本を閉じて、ふうっと息を吐き出す。
「俺に聞かれてもな、俺はお前がおむつしてた頃から見てるんだから実感がな。ま、他人がそう見えたんだからそうなんだろ?」
 麗子はおもむろに立ち上がると障子を開ける。夕日が山を染めて、カラスではない鳥の群れが林の向こうに消えていった。哲也は腕時計を見る。
「晩飯にはまだ時間があるな…。麗子、温泉に行こうか?」
 振り返った麗子の顔は何だか冷めていた。哲也は面食らって目をぱちくりとさせる。
「温泉って…一緒に?」
「そうだけど…」
「やだ、エッチ。一人で行ってきなさいよ」
「…昨日の今日で、何言ってんだ?」
「女の子ってのはね、一日あれば大人になれるの」
「はいはい、さいですか…」
 別々に入浴する。食事の時もなんとなく無言だった。麗子はじっと哲也を見ているが、彼がちらっと視線をやるとすぐに背けた。ようやく話しかけてきたの は、布団を敷いた暗闇の中だった。
「ねえ、哲也…大人って何なの?」
「…さあな」
 漠然とした質問に、漠然と答える。漠然とした気持ち、不安…何もかも、麗子にはやるせない。
「だって哲也は大人でしょ?。教えてよ」
「何で俺が大人だと思うんだ?」
「え?…えっと…だ、だから、わかんないから聞いてんじゃん…」
 麗子は拗ねて背中を向ける。見えない天井に、哲也の心も重い。
「…人それぞれ違うんじゃないか。何かがあって、それで大人になるんだ。子供の時とは、明らかに考え方とか、物の見方とかが変わる時がさ…それが無いまま だと、いくら年食ったって大人になったとは言えないと思うよ」
「哲也は何だったの?」
 少し考える。転機と言えば、やはりあれがそうなのだろう。哲也は躊躇せずに口にした。
「…お前の母さんが結婚したときかな」
「どうしてさ?」
「まあ、いろいろな」
「…何なの?」
「知らなくたっていい。親を嫌いになったってしょうがないさ」
「…大丈夫だよ。これ以上嫌いになんて、なりようがないから…」
 そんな台詞を聞かされては、さすがに哲也も物の言い様がない。麗子もそれ以上言わなかった。夏の虫の声。哲也はその中に混じった、麗子の微かな鼻の擦れ を感じ取る。
「…泣いてんのか?」
 彼女の方をうかがうが、麗子は背中を向けている。哲也はただどうしようもなく闇を見つめる。するとむっくりと麗子が起き上がった。備え付けの冷蔵庫をガ タガタと開けている。パタンと閉めて戻ってくると、ポンと哲也の腹の上に何かを投げた。一体何が起きているのか、哲也は状況がつかめなかったが、プシュウ という缶の音でハッとなる。
「こ、こら麗子!。お前、酒なんか…」
「…今時飲酒ぐらいでブーブー言わないでよ」
「高校生なら見逃してやったっていいがな、お前まだ中学生だろう?」
 哲也の戒めに耳を貸さず、麗子は一気に飲み干した。二本目を開ける。
「だからやめろって!」
 缶を奪い取る。よどんだ瞳で麗子はつかみかかってきた。
「返せっ!」
「こ、こら、こぼれるだろ…」
 ぐぐっと飲んでしまう。キュッと冷えたひさしぶりのビールは、思いのほか喉に心地好い。思わず半分ほど飲んでしまった。麗子は再び冷蔵庫に行き、大量の 缶を持ってくると二人の間に乱暴に放った。
「…昼間、何を買っているのかと思えば…」
「だって、最初から入ってる奴、値段が倍ぐらいするんだもん」
 だからと言って酒を買った言い訳にはならない。麗子はげほげほ言いながら喉に流し込んでいる。どうせ飲むのなら、少しでもその量を減らそうと哲也は作戦 を変更してバンバン缶を開けていく。さすがに麗子は二缶目を飲み切れずに持て余していた。
「ああ、まずい。なんでこんなまずいもの、大人は美味しい美味しいって飲んでるのよ…」
 本当は軽い気持ちで、大人を気取って買ってみただけなのだろう。それが思いがけず自棄酒のようになって、麗子の体内を悶々と焼いていく。
「…私、やりたい事、ある」
「…ん?」
「家族…やりたいなあ」
 肩を並べて、二人は黙りこくる。まるで居酒屋で哀愁を漂わせるサラリーマンのようだと、哲也は酒を飲む気を無くしてしまう。麗子も既に缶を床に置いてい て、哲也は取り敢えずそられをテーブルの上に片付ける。すると背中から麗子がすがってくる。
「ねえ、結婚しようか?」
「はあ?」
「だって、結婚して子供産めば家族になるじゃん?」
 あまりに突拍子な考えにどう答えていいかわからない。状況からすれば叱るわけにもいかず、哲也は酔いの回った頭をグルグル回して右往左往させていた。
「ねえ、哲也…なんか言ってよ?」
「な、何かと言われてもな…」
「何よ、私ってそんなに魅力がないわけぇ?」
「お前、言ってる事むちゃくちゃだな…」
 よろよろと哲也につかみかかろうとするが、酔いが回っているのかふらふらと体を揺らしている。そして哲也の胸に抱き付くと、今度はぴったりと動かなく なった。
 泣き始めた。今度は声を殺さずに、麗子は哲也の胸の中で泣いた。哲也は優しく、彼女の頭を抱き締めてやる。
「…私って、産まれてこなかったほうがよかったの?。私が産まれなければ、哲也だって母さんと仲が悪くならないで済んだんでしょ?。父さんも、母さんも、 むりやり結婚しなくたって済んだんだ…私なんか、産まれてくる意味なかったんだ…」
 淡々とした独白。まるで消えてしまいそうな声。哲也は力を込めて抱き締めた。彼女が痛いと言うまで抱き締めようと思った。
「麗子。俺はお前が産まれてきてよかったと思っている。お前と一緒にいられてうれしいよ。…お前がいなかったら、俺は困る」
「……」
 返事は無かった。麗子も彼の背中に回した腕に、ありったけの力をこめる。それはまるで彼女の存在を叫ぶかのように、哲也の体に食い込んだ。

 車は高速を降りて国道を走る。ひさしぶりの信号が気怠かった。団地脇の小道へと折れたところで、哲也が口を開く。
「このまま帰るんだろ?。家まで送っていくか?」
「自転車を置きっ放しだよ。哲也ん家でいい」
「それじゃコンビニに寄るか。車ん中、空き缶だらけだからな」
 ウインカーを出して車道に止める。麗子はシートベルトを外さず、何かボーとしていた。
「…ねえ、今日って何日目?」
「ん?…旅行は六日目だな」
「私、母さんに一週間って言ったのよね。…今日、哲也ん家、泊まってもいい?」
「はいはい、この際どこまでもお付き合いしますよ…」
 夕方を過ぎていたので食事を買う。哲也はお弁当売り場の前で突っ立っていた。お菓子ばかりを籠に放り込んだ麗子が横に並ぶ。
「何してんのよ。早く選びなさいって」
 哲也はゆっくりと首を動かして籠の中身を確認する。少しばかりおどけてみせた。
「これが夕食?」
「特に食べる気もしないし…別にいいっしょ?」
「なんだかんだ言っても、そういうとこは現代っ子だな…」
「じゃあ、なんか買うよ。…お寿司でもいい?」
「好きにしろ。俺は焼きうどんにするか…」
 哲也の部屋で食事をする。哲也はテレビを点けて野球に合わせる。
「ありゃりゃ、また負けてやんの。これはあれだな、今年で監督クビだなあ…」
「私さ、いつも思うんだけど、素人がそういうふうに言うのってあんましいい事じゃないと思うなあ…」
「そう、こっちは素人なの。で、あっちはプロフェッショナルなわけ。俺たちの金で野球して食ってるわけなんだから、下手なプレーをすれば文句を言われて当 然なわけだ。好きなことをやって飯を食えるってのは、人間にとって一番幸せなことだと思うけどな。最近のプロ野球の選手は、それをわかってない奴が多過ぎ るよ」
「ふ〜ん…私はよくわかんないから別にいいけど…」
「でも、麗子みたいな感じ方ができるのは、感性が擦れてない証拠だな。いいことだよ」
「そりゃ、どうも…」
 からかったつもりなのに褒められたので、麗子はきょとんとしてしまう。しかし、趣味の話になった哲也は止まらずにエスカレートしていく。
「そのうち野球も見に行くか。テレビ観戦ってのは、試合進行を楽しむからさ、どうしても文句ばかりになるんだよな。野球場ではプレーを楽しむんだよ。球の 速さとか、舞い上がるホームランとか…一度実際に見てみると、間違いなく鱗が落ちるぞ」
「ふふ…そのうちね…」
 お愛想を打って麗子は寿司の蓋を開ける。しばらくして哲也がつぶやいた。
「寿司食いながらコーラを飲むのか…俺には信じられんな…」
「え?…まあ、そう言われれば変な組み合わせだけど…」
「…やっぱり世代の差を感じるな…俺も歳を取ったよ」
 野球が終わると哲也は机に向かってワープロを打ち出す。麗子はそれを眺めていた。
「小説家、なれんの?」
「さあ、わからん…」
「何よ、なんか投げ遣りね。夢なんじゃないの?」
「かなえるだけが夢じゃないさ…」
 テレビを見ていてもつまらないけれど、お仕事の邪魔をするのも悪い。麗子はぼりぼりと頭を掻いた。
「…そろそろお風呂入ってもいい?」
「沸かしてないよ。それに洗ってないしな。シャワーで我慢しろ」
「服ある?」
「Tシャツでも着てろ。下は…俺のパジャマでいいよ」
 言われた服を持って浴室に向かう。口火を焚くのに少し手間取る。浴槽を覗き込むと水垢が溜まっていた。思わずのけぞってしまう。
「もぉ、きったないなあ…哲也ったら、最近ずぅーっとシャワーしか使ってないな?」
 さあっと浴びる。温泉と比べると水道の水はやっぱり無機質だ。それが肌でも感じ取れる。哲也のTシャツを着て、パジャマのズボンはおなかがブカブカだっ たが、ゴムだからなんとかなった。部屋に戻るといつのまにかテーブルは窓に立て掛けられて布団が一つだけ敷いてある。哲也は相変わらずワープロだ。
「…一緒に寝るの?」
「アハハハ…俺はお前が帰ってから寝るよ。もう一枚布団はあるけど、しばらく干してないからな。ダニでもいたら大変だ」
「そう…御免ね」
 麗子が布団にはいると、哲也は明りを消した。机の蛍光灯だけが細々と輝いている。キーボードの音が静かに響く。
 麗子は明りに背を向けて枕を抱き締める。今回の旅行は半分家出みたいなものだった。喧嘩してから一言も会話を交わさない両親を見ているのが耐えられな かった。こっそりリュックに荷物をまとめて、でもいざ出発となったらどこに行く勇気も湧いてこなくて、結局哲也の家に転がり込んだ。明日からまた、冷たい 家庭の中。だからと言ってふらふらしたのでは、哲也も心配するし、何よりお爺さんに悪い。
 結局、自分も両親と同じなのだ。お爺さんの機嫌を気にして言いたい事も言えない、やりたい事もできない。十四年間、ずっとそうして生きてきてしまった。
 ワープロの音がカタカタと響く。自分にとって一番身近な存在、けれど一番遠い異性。男とか、女とか、真剣に考えたことなんてなかった。哲也は自分の事、 どういうふうに思っているんだろうか。いつまでも妹みたいにしか見ていないのかもしれないけれど、麗子はそっと胸の先に触れる。段々出っ張ってきた。少な くとも体は少しずつ大人になってきている。でも、キスとか、エッチとか、そういうものは全然リアリティが無い。大人の事考えて、そういう事ばかり浮かぶの はやっぱりまだまだ憧れている証拠なのだろうか?。 そう言えば、海でキスしてたカップルがいたっけな。哲也の事からかったら、適当にごまかされた。哲也 もキスした事があるんだろうか。一体どんな気持ちだったんだろう。今は彼女はいないみたいだ。どうして別れちゃったんだろう。エッチもした事あるんだろう けど、やっぱり全然リアリティが無い。大人になるって、どういう事なんだろう。
 胸を撫でる指先を、少しずつ下ろしていく。カタカタと響くワープロが、呆然と意識の中でこだましている。ワープロの音がやむと指が止まった。また鳴り出 すと動き出した。そんな、単調なリズム。下着を履いてないのが不自然に思えなかった。
 歯を食いしばって、声を抑える。鳴り続けるリズム。大人になるってどういう事だろう。家族ってなんなんだろう。くらくらする頭の中で、そんな台詞が回っ ていた。
「…麗子、どうかしたのか?」
 ハッとして目を見開く。振り返るとすぐ横で、哲也が自分の顔を覗き込んでいる。瞳を見つめたまま、麗子は動けない。額に伸びる哲也の手を、呆然と受け入 れる。
「ちょっと熱があるんじゃないか?。こんな遅くじゃ薬局もやってないしな…」
 麗子は哲也の手を握る。そして頬に押しつけた。哲也はただその様子を見守っている。麗子は何も考えていなかった。何も考えられなかったけれど、体は動い た。気が付いたら哲也に抱き付いていた。彼の頭を、潰れるぐらい抱き締めて、痛いぐらいにくちびるを押しつけて。哲也が何か呻いていたけど、当然のごとく 無視した。
 麗子は哲也の上に乗っかっていた。お互いに息を切らして、ただ黙って見つめ合う。麗子は大きく息を吸った。
「友達、嘘ついた」
「は?」
「いちごの味なんてしない。…かつおぶしの味だ」
 そう言って麗子は元の位置に横たわる。背中でつぶやいた。
「ワープロうるさいよ。隣でいいから寝ちゃって」
 それっきり麗子は黙った。哲也は手を伸ばして机の電気を消す。そして暗闇の中、膝を立ててタンスに寄り掛かる。
「寝れるかよ、アホ…」

 あれから麗子は家に来ない。情緒不安定だからあんな事をしたんだと、哲也はそれで片付けていた。だからあんまり気にはしていない。ワープロに小説 を打ち込みながら、作り話ってのはやっぱり嘘っぱちなんだな、なんて考えてしまう。寒い冬だった。
 玄関が開いた。振り返ると麗子が入ってきた。中学の制服を着ている。学生鞄を床に放り投げた。突然の訪問に哲也が戸惑っていると、麗子が先に口を開く。
「ねえ、海に行こうよ」
「う、海?。いいけど、なんでまた…」
「だって哲也言ったじゃない。冬の海の方がいいんだって。俺だけの秘密なんだって。それ、私にも見せてよ」
 真剣と言うよりは、悲壮な顔だった。だから哲也も黙って車の鍵を取った。時計はまだ午前中で、学校はどうしたんだなんて、野暮な事は言わなかった。
 冬の海には、誰もいなかった。強い風が、麗子のスカートをなびかせる。哲也はジーパンなので砂の上にすわった。遠い遠い水平線。麗子は手をかざして灰色 の空を見つめた。
「ほんとだね…」
「…ん?」
「重たいね。灰色の空も、黒い海も。…私、こんな色の空も海も、初めて見た。こんな海もあるんだね…」
 風の強さに目を細める。麗子の体は飛んでいってしまいそうにふらふらしていた。
「…空の色も凄い。凄い灰色。なんて絶望的な色なんだろう…」
「絶望的な色、か…」
 凄い表現だなと思う。そんな表現をする人間の心が読めなくて、哲也もただ空を見上げる。やがて麗子も哲也の隣に、体育座りで腰を下ろす。
「スカート汚れるぞ?」
「だって風強いんだもん。まるで台風みたいね」
 哲也はチラッと麗子の顔を覗く。遠い表情がはかなげに美しい。
「…風って、最初はこんなに強いんだね。これが山とか、ビルとか…そういうので段々弱くなるんだ。私、全然知らなかったな。こんなに身近な海の事なのに、 私なんにも知らなかった…」
 麗子は膝の間に顔を静める。荒い波が打ち寄せて、潮のざわめきは絶え間ない。
「ねえ、何か言わないの?」
「うん…」
 何か言ってほしいのだろう。哲也は海につぶやくように聞いてみる。
「どうかしたのか?」
「お爺さんが倒れた。運ばれた」
「な、何!?。父さんが…びょ、病院は!?」
 麗子は黙って海を見ている。哲也はポケットを探った。
「携帯は…車の中か」
 哲也は立ち上がる。走り出そうとすると、麗子が足をつかんだ。
「行かないでよ」
 顔は海を見たままだった。哲也は手を振りほどこうとするが、麗子は離さない。
「そんな事言ったってな…」
「行かないでよっ!」
 涙の混じった叫び声。哲也の息が止まる。波の音も聞こえなかった。
「行かないでよ、私といてよ!。どうせもう助かんないわよ!。…そりゃあ、私お爺さん好きだよ。出来るだけ長生きしてもらいたいよ。でも、もう無理だよ。 お爺さん、これ以上生きたいと思ってないもん。私の父さんと母さんの事、もう見ていたくないって思ってるもん。だから助かりたいなんて思ってない、お婆さ んのとこに行きたいって思ってるもん。…だから私といてよ。もう死んじゃう人のために何かしたってしょうがないじゃない。だったらまだ生きてる人のために 何かしてよ?。私、まだ生きてるの。まだ生きたいの!。だから私の側にいてよ。ねえ、私、間違った事言ってる!?」
 麗子は体を捻って哲也の膝にすがりついていた。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙。哲也は大きく息を吐くと、麗子の隣にすわり直した。くしゃくしゃの顔を拭い て、麗子はなんとか笑顔を見せる。
「ありがとう…」
「…母さんたちにはなんて言ってきたんだ」
「私が早退してきたら、父さんも帰ってきていて、それで病院の母さんと電話してたんだ。その電話が終わったら、哲也ん家に電話しようとしてたから、私が連 絡して一緒に行くからって言ったの…」
「そうか…」
「…父さんも母さんも、お爺さんの事なんて考えてないのよ。死んだ後のこと考えてる。葬式とかじゃなくて、もっと先のこと…。どうやって離婚しようかっ て、それが顔に出てるのよ。…自分の親が死ぬって言うのにね」
 哲也はただ麗子の言葉を聞いていた。空が、灰色の空がとても重かった。麗子も空を見上げる。妙に晴れ晴れとした表情だ。
「ふふ…駄目だな。なんかもう、全部駄目って感じ。よくわかんないけど…この空みたい。…絶望的。絶望が加速してるよ」
 風が一段と強くなった。麗子も少し、落ち着いた。落ち着き払って聞いてみた。
「ねえ…私が死ぬって言ったら、哲也どうする?」
「……一緒に死んでやるよ」
 少し考えてから、真顔でそう言った。麗子は思わず笑い出す。
「プハハ…そんなバレバレの嘘言わないでよ?」
「嘘をつくのは、悪い事じゃないさ」
「やーね。これだから大人ってのは擦れちゃって…」
「お前だってもうすぐ大人さ」
「そんな大人になんかなるんなら、生きてる意味なんてないよ」
「それはお前、一生懸命生きてる俺に対して失礼ってもんだ」
「…そうね。哲也は一生懸命生きてるもんね。うらやましい…」
 耳元でバリバリと風が音を立てる。心も体も、切り裂かれそうな音だった。
「麗子だって生きてるさ。誰だって生きている。十四ぐらいで悲観するんじゃないよ」
「でも私、もう生きる場所無いよ。今の私に、家族なんてない…」
「…家族ってのは、守るもんでもない。直すものでもない。常に作るもんなんだ。どんなに幸せな家族だって、いつか子供は出てって新しい家族を作る。その繰 り返しが人の流れさ。麗子はそれが普通より少しだけ早かっただけさ。特別なことじゃない」
「ふふ…きつい事言うのね。慰めてもらいたいっていうのに…」
 そうは言うものの、麗子の声はなんとなく明るい。哲也の肩に寄り掛かる。
「いつかは壊れる家族にさ、いつまでもすがってたってしょうがないんだ。だったら自分から出てく方が遥かに気が楽ってもんだ」
「哲也みたいに?」
「ハハ…俺は追い出されたんだよ」
 なんとなくまどろんで、二人で海の向こうを見つめる。まだ風は強かった。
「哲也。絶望の先には何があると思う?」
「さあね…。でもまあ、たぶん…この空と同じ色をしてるんじゃないの」
「…そうね」

 間もなく祖父は死んだ。一周忌の法要が終わると、まるでそれを待っていたかのように両親は離婚した。麗子は高校に進学していた。そして…

 朝の六時半。制服を着た麗子が台所でお弁当を作っている。ぎゅっと包みをして完成する。おかずの余りがそのまま朝御飯だ。お弁当を鞄の横に置く と、麗子は部屋を開けて哲也の布団を揺り動かす。
「ほら、哲也。朝御飯できたから食べてよ?」
「ううん…俺はさっきまで起きてたんだよ。後で食べるからいいよ」
「何言ってんのよ。昨日は私より早く寝てたじゃない。いくら新人賞取ったからってね、その後が続かなかったら駄目なんだからね?。御飯食べて仕事しなさ い!」
 麗子は布団を引っ剥がしてから居間に向かう。哲也はぼさぼさの頭を掻いた。
「はあ…これじゃカミさんいるのと同じだよ。下宿なんてさせなきゃよかった」
 服を着替えて朝食を取る。哲也は窓から空を眺める。
「ひさしぶりに晴れたな。こんな日は散歩すると気持ちいいんだよな…」
「駄目よ。原稿書いてなかったら晩御飯なしだからね」
「はいはい…」
 そういう麗子も箸を置いて外を眺めている。哲也は眠たげな顔で彼女を見る。
「どうかしたか?」
「私ももう、テストが終わったから、無理に学校行かなくてもいいのよね。…ねえ、行こっか?」
「…何が?」
「ふふ…。行こう…あの海に行こうよ?」
 二人は海岸に立っていた。いつものような強い風。空は晴れていたけれど、重たい空には変わりない。哲也は立ったまま辺りを見回す。
「…あれから一年…いや二年か。よくあれだな、お前が俺んとこ来るの、姉さんたちは許してくれたよな」
「別に私の事考えてじゃないわよ。自分の事しか関心がないのよ。私なんか、育てなきゃいけなくて邪魔ってこと。厄介払いできて喜んでるのよ」
「いくらなんでも、自分でそこまで言うかい…」
 麗子はすわっていた。どことなく快い笑顔だ。確かに風は気持ちいい。
「綺麗な空…。空って、ころころ、ころころ変わるのよね。人間と同じよ」
「人間も空も同じようなもんさ。いろんな姿を持っている…」
「…ねえ、すわらないの?」
 そう言われて哲也も麗子の横にすわる。天気がいいから、何人かサーフィンをやっている姿が見える。沖合にはヨットも流れていた。右の奥では犬を連れた人 が散歩をしている。鱗のように面なる雲。天気がいいから真っ白な雲だ。青い空によく映える。
「ねえ、哲也。私、邪魔じゃない?」
 唐突な質問。哲也はボリボリと頭を掻いた。
「べっつに…」
「毎朝叩き起こしても?」
「早起きできるからいいよ」
「晩御飯手抜きしたりしても?」
「誰だって忙しい時はある」
「ふふ…ありがと…」
「…いまさら何言ってんだ…」
 ひゅーと強い風が吹いた。麗子は前髪を押さえる。風に乗るようにつぶやいた。
「ねえ…私たちって、家族だよね?」
「…そんな事も知らなかったのか?」
 麗子は彼の方に顔を向ける。哲也はちらっとだけ見て鼻で笑った。麗子も笑顔を見せる。
「…知ってたよ」
 立てた膝の上にぱたんと顔を横にして、はにかむように微笑んだ。それはなんとなく物悲しいけれど、とても優しい笑顔のように、哲也には見えた。

97.7.16  Ende
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