1.女心と柚子
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 ナームはコンビニで雑誌を立ち読みしていた。今はテスト期間中なので部活はない。と言っても自主練習と言う形で2.3時間は練習があるが、それでも夕方前には終わってしまう。
 彼女は帰国子女特別推薦Sランクで入学している。学費も無料と言う凄まじさだが、もし空手で挫折するようなことがあればお先真っ暗であるとも言える。取り敢えずテストにおいては、赤点を取らなければいいわけだから気楽と言えば気楽だ。
 しかし、さすがの山城学園も、彼女にお小遣いまで支給してくれるわけではない。ナームはあらかた雑誌も読み終えて店内から外を眺める。知り合い人影はない。もっとも、寮以外に居住地域が見当たらないこの辺りで、テスト期間中のこの時間に知り合いに会うと言う方がおかしい。
「帰ろう、かな…」
 後ろを振り返ると店員と目が合う。慌てて目を逸らす彼。立ち読み常連のこちらをじっと見ていたようだ。
 視線の横に、化粧品が並んでいた。なにげなしにその前に立つ。同じブランドでまとめた新商品の棚のようで、マニキュアやら口紅やらが色とりどりにならんでいる。「化粧かあ…」
 金銭的にあまり余裕のないナームはあまりそういったものを購入しない。デートの費用はあちら持ちだが、女は服を買うだけで精一杯なのだ。そう、書き忘れたが特別推薦Sランクで寮生活の彼女はバイトを禁止されている。もっとも、部活に忙しくてとてもそんな余裕はないが。
「…いい歳してなんちゅう顔してんだが…」
 手に取っていたマニキュアを慌てて棚に戻す。白衣を着た彼は池田直也。姉代わりの部活の先輩、中井美樹といろいろ噂のある男。その真偽は別として、自分も世話を受けている。それが、勝ち気な性格の彼女にはちょっぴり悔しくて、それゆえちょっと苦手でもある。
 池田はマニキュアを手に取った。商品説明を読みながら首をひねっている。
「ネールカラー? マニキュアとは違うのか?」
「私はドイチだから、エングリッシュの違いはわからないわよ」
「カラーは色で、ネールが爪なのか…しかし、『鉄の爪』フリッツ・フォン・エリックがアイアンクローだから爪はクローじゃないのか?」
「…誰よ、それ?」
「プロレスラーだ。知らないのか?」
「…私が知るわけないでしょう」
 池田は細かくネールカラーを調べている。端から見ると滑稽な絵柄だ。
「三百八十円…何だ、大した値段じゃないな。そんな顔しているからメチャクチャ高いのかと思えば…」
「私の月のお小遣いは五千円しかないのよ。それで服買って、デート代使ったら残らないわよ」
「はん? そんなの男が払うんじゃないのか?」
「雄弌だってそんなに余裕があるわけじゃないんだから。第一、お金があればコンビニで時間潰してたりしないわよ」
「ふ〜ん…」
 興味無さそうな顔をする池田。何を思ったか黄色のネールカラーをカゴに入れた。呆気にとられるナーム。
「…何してんの、アンタ?」
「うん? なんだ、要らないのか…」
「あっ、ととと!?」
 元に戻そうとした池田の手を思わず抑える。鼻で笑う池田。ナームは一瞬しまったと思いつつ、こうなったら開き直るしかない。
「大体ねえ、何を選んだわけ?」
「うん、バナナシェークだな」
「はぁ?」
「他にもあるぞ。シャーベットメロンとか、はちみつゴールドとか…」
 ナームはバナナシェイクを棚に戻すとじっくりと選び始める。隣で囃立てる池田。
「お〜い、早くしろよ、広瀬〜」
「…うるさいわね。女の買い物は時間がかかるのよ」
「へいへい…」
 池田は自分の買い物に行ってしまう。ナームは端から端まで目を凝らす。
「…種類が多すぎるわよね」
 池田はジュースと御菓子をカゴに詰めて早々に戻ってくる。一本選んで池田に見せる。
「パッション・ピンク? 何の捻りもないな」
「い、いいでしょ、別に」
「まったく、そんなんじゃ座布団はやれないな…おい、これも買え」
 そう言って池田はコロンを手に取る。それを取って成分を見る。
「ソフトクリーム?」
「うむ、なかなかだろ?」
「…こっちにして」
 ナームは隣のスウィーティーに変更する。レジを済ませて二人でコンビニを後にする。
「しかしまあ、お金がない、お金がないって、服とデートでそんなに使うか?」
「いろいろあるのよ、いろいろ…」
「そうさなあ。ホテル代って意外と高いし…」
「はぁ?」
 固まる。きょとんとする。言葉の意味を理解して、その途端ナームは噴火した。
「な、な…何考えてんのよ、あんたはっ!?」
「わかった、わかった。わかったから道のど真ん中で叫ぶのはやめてくれ」
 ハッとして辺りを見回す。通行人はいなかったがみるみる萎縮してしまう。
 やがて校門の前にきた。ナームは池田の顔を横から覗く。
「あんた、こんな時間まで何してるわけ?」
「何って…部活だけど」
「…あっそ」
 立ち止まる。後ろで手を組んで、背中を向ける。池田は何も言わない。
「…ダンケ」
 母国語でそう言った。しかし、少し待ってみても反応がない。振り返ると、池田が右手に何か持っている。
 映画の優待券だ。顔を赤くしながら、視線を横にして近付く。手を伸ばすと、池田が手を引いて、ナームは空をつかむ。
「な、何よ?」
「礼は尽くせ、礼は」
「…そのうちね」
 もう一度手を伸ばす。今度は池田は動かなかった。右手で化粧品の入ったビニールを振り回しながら走って寮に帰る。池田は鼻をフンとならすと部室に戻っていく。

 テストが終われば、日が暮れるまで部活だ。ナームは中井と一緒に寮までの道を歩く。
「明日は祝日ね。ナームちゃんはお出掛け?」
「ぶ、部活に決まってるじゃない」
「プププ…明後日はイヴだし、部活も一日中あるわけでもないし…」
「ひ、他人の事より、自分の心配しなさいよ、もう…」
「いいの、いいの。私はマイペースだから」
 玄関に入ると食事の匂いが広がっている。生徒によってはもう食事をしているからだ。
「そうだ、ナームちゃん。今日は浴場の方に行きましょうよ?」
「よ、浴場?」
 各個室にはシャワーが付いている。なかなか立派な寮なのだ。しかし、湯船は大浴場にしかない。まだ日本の生活が一年程のナームにはあまり馴染がないから、ほとんどシャワーで済ませている。しかし、中井は妙ににやにやしている。
「あとで迎えに行くからね」
 食事をした後は、自分の部屋でボーッとテレビを見ている。しばらくしてノックの音がした。
「はぁーい」
「ナームちゃん、そろそろ行きましょう?」
 二人は大浴場に赴く。浴室に入って、ナームは異変に気付いた。何か黄色の物体が浴室に浮いているのだ。彼女はそれを拾い上げる。
「…レモンにしては大きい…」
「柚よ、柚。ミカンの仲間。と言っても、レモンもミカン科だったっけ?」
「いや、それはどうでもいいんだけど…」
 中井は湯船にはいると目の前に浮いている柚を手にとって軽く絞る。ジュッという果肉の砕ける音ともに、果汁が霧となって、あたりに匂いを撒き散らす。
「う〜ん、いい匂い…入らないの?」
「う、うん…」
 恐る恐るナームは湯に浸かる。ベトベトするのかと思っていたがそんな事はない。しかし、いつもと違う水質を肌に感じる。
「なんで、こんなの湯船に入れてるわけ?」
「今日は冬至でしょ。日本では冬至に柚のお風呂にはいると風邪を引かないのよ」
「迷信って奴?」
「う〜ん、どっちかっていうと風習って言った方がいいのかな? 子供の日にも菖蒲湯に入るしね」
「ふぅん…」
 大浴場なので大量の柚が浮いている。ちょっと異様な風景に感じながらも、ナームは鼻につく匂いに悪い気はしなかった。

 祝日の部活は四時に終わる。朝から八時間。そして寮の門限は八時。五時に待ち合わせをすると実質2時間ぐらいだ。ナームは疲れた体に鞭を打って出掛ける。
 パッションピンクに爪を染め、スウィーティーのコロンを吹き掛ける。鏡の前に立って、思わずにやけてしまう。
「…さてと、そろそろ行ってやらないとね」
 バス停で、雄弌は所在無げに突っ立っている。ナームを目にすると微かにほっとしたような表情が見える。
「おまたせ」
「ううん…」
 相変わらず無口。ナームが促して、バスに乗る。
「爪…どうかしたの?」
「どうかしたのって…見ればわかるでしょ?」
「うん…」
 言葉は少ないが、それでよかった。駅前に着くと街中を歩く。ナームはおもいきって彼の左腕に抱き付いてみる。
「な、何?」
「…嫌?」
「そ、そうじゃないけど…」
 雄弌の腕がピクピク痙攣している。そういえば腕を組んだ事など無かったか。そう思うとナームも恥ずかしくなってきたが、気付くまでは意地でも続けてやる。
 駅前には山学の制服姿もチラホラ見えたが気にしない。もともと橙色の髪の彼女はどこを歩こうとどんな格好をしようと日本では目立ってしょうがない。
「…ナームさあ…なんかつけてる?」
 ようやく気付く。上目遣いで彼を見ながら、頬を緩ませる。
「わかる?」
「う、うん…」
 曖昧な答え。少し考え込んで、ポツリとつぶやく。
「…柚の匂いかな…」
「はぁ?」
「え…いや、さ…」
 ナームもどう反応していいかわからずに言葉に困る。雄弌は彼女が機嫌を壊したかと思って必死に取り繕う。
「い、いい匂いだと思うよ」
「…柚が?」
「いや、その…」
 わざと膨れた顔をして出方を待つ。鼻を擦って、正面を向く雄弌。
「…ナームがね」
「…ぷ、あはは…」
 こらえきれずに笑ってしまう。雄弌は唇を曲げて正面を向いたままだった。
 冬場の五時は寒い。彼の体温を感じるようにして、ナームは彼によりかかるようにして歩く。
「ほら、それでどこに行くわけ?」
「えっと…雄次に店、聞いてきたんだ…」
 これから向かうレストランの話をしながら、ふと頭の片隅で、池田の言うとおりソフトクリームにでもしてやればよかったかと、ちょっとだけ思ったりもした。


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