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第五話 フクロウと人魚の森


「愛してはいけない人を愛せば、報いを受ける。そのために大切な人を裏切れば、 尚更に。そんなことは、最初から分かっていたのに……」
 星の見えない都会の空。ぽつんと孤独に浮かんでいる赤みがかった月を見上げ、 百合沢朱音(ゆりさわあかね)はそう呟いた。夜風にさらさらと彼女の髪が流れる。 軽く溜息を付くと彼女は寂しげな笑みを浮かべた。
「私も、人魚姫みたいに空の娘になるのかな。決して叶うことのない期待を胸に、 永遠に彷徨い続ける空の娘に」
 いつか願いは叶う、奇跡が起きる、救われる。それは希望。だが、それは同時に 檻にもなる。希望があるが故に傷付くと分かっていても足を止められない、それが 人間の性(さが)だから。
「冬馬さん……私は、どうしたらいいんですか?」
 彼女の問いに答えるものはない。
 ただ、夏の夜風が彼女の髪を揺らすのみ。
 ただ、紅い月が静かに彼女を見下ろすのみ。
「冬馬さん……」

 ルルル、と、軽やかなメロディを電話が奏でる。パソコンの画面に視線を 向けたまま、大滝修司(おおたきしゅうじ)はヒョイっと受話器を取り上げた。
「ああ、俺だ。何かあったのか?」
『今のところ、大きな動きはありません。ただ……昨日もお話した例の男(やつ)、 今日も相変わらず付きまとってました。今はもう帰ったようですが』
「どこの誰かは?」
 かたたと右手でキーを叩きながら修司がそう問い掛ける。珍しく、目が真剣だ。
『東郷の、榊貢(さかきみつぐ)とかいう奴らしいです。直接接触してくる様子は ないんで、いわれた通り放ってありますが』
「東郷? あそこは、確か……」
『あ、いえ。『蛮馬』とは無関係です。どうも典型的な一匹狼タイプみたいですね。 族関係の繋がりは少なくとも見当たりません』
 受話器の向こうから返ってくる言葉に、僅かに修司は眉をひそめた。
(考え過ぎか? 単純に、冬馬の奴に女を取られた男って線もありか……)
「……そう、か。とりあえず現状維持だな。くれぐれも用心しろよ。相手は、 水瀬恭子と『影天使』だからな」
『分かってます。兵隊たちにもよく言い含めてありますから。それじゃ、 失礼します、センパイ』
「ああ。……さて、と」
 受話器を本体に戻しつつ、修司は僅かに考え込むような表情を浮かべた。
「人の色恋に口を出すべきじゃあないんだがな。ま、いざとなったら戦争か」
 頼むから、俺にそんなことはさせないでくれよ、恭子。お前の場合、面白そう だから、の一言で戦争の一つ二つ起こしそうではあるけどな。俺たちを相手に したら、お互いに無傷じゃ済まないぜ?
 事件が起きることを期待しているのかしていないのか。それは自分でも分からない。 どんなに格好をつけたところで、自分が住む世界は闇の領域に寄っているから。
 くつくつと低く笑いながら、修司はキーを叩いた。

 夜風がねっとりと身体に絡み付く。煩わしげに落ちかかってきた前髪をかき上げ、 四図崎冬馬(しずさきとうま)は溜息をついた。
「恋愛に運命なんて存在しない、か……。一体俺は、誰が好きなんだろうな」
 ミャア、と、小さく鳴いて白い子猫が彼の足にまとわりつく。軽く笑って冬馬は しゃがみ込み、子猫を抱き上げた。
「どうした? ユイ。おなかが空いたのか?」
「ミャア」
「しょうのない奴だな。ま、いいか」
 ベランダから室内に戻ると、ソファの上に寝そべっていた黒猫が僅かに顔を 上げた。一つ欠伸をしてからソファを飛び下り、キッチンへと向かう。苦笑を 浮かべると冬馬は子猫を抱いたまま黒猫の後を追った。 「まったく、餌の時ぐらい愛想を見せたらどうだ? コウ」
 冷蔵庫の前で欠伸をしている黒猫に声を掛ける冬馬。黒猫はふいっと横を向き、 彼に抱かれている子猫のほうが小さく鳴いて冬馬の顔を見上げた。
「ミャ?」
「お前は愛想があり過ぎだな、ユイ。ほら、ちょっと待ってろ」
 冷蔵庫の中からミルクと猫缶を、棚から皿を取り出して二匹の猫たちに食事の 用意をしてやる。二匹が食事を始めるのを椅子に座って眺めながら、冬馬は小さく 笑った。
「そうだな。悩んでいても、仕方がないか……」


 七月も半ば過ぎの陽光が、容赦なくアスファルトを焼いている。木陰にいれば 少しは楽だが、それでも気温と湿度は相当に高い。
「お、朱音ちゃん。今日は早いね。それとも、もしかしていつもこの時間?」
「修司さん? 修司さんのほうこそどうしたんですか? こんな時間に。 休講にでもなりました?」
 木陰のベンチに腰を下ろしていた朱音が、声を掛けられて少し驚いたような 表情を浮かべる。軽く肩をすくめると修司は彼女の横に腰を下ろした。
「そんなとこ。ま、自主的に、何だけど。朱音ちゃんは?」
「一応、友達にノートは頼んでありますけど……。もともと一般教養だから、 取れなくてもそんなに困らないんです。私の場合、二年以降にならないと取れない 専門科目が卒業要件の大部分を占めてますから」
「そういうもんなんだ?」
「ええ。あっ」
 頷いた朱音が何かに気付いたような表情を浮かべて腰を浮かせる。怪訝そうな 表情を浮かべて修司が彼女の視線を追った。中性的な、と、形容したくなる青年が 一人、こちらへと歩いてくる。青年、と、いっても、修司よりは年下、朱音とは 同い年ぐらいか。こちらの視線に気付いたのか、僅かに驚いたような 表情を浮かべて青年が一瞬足を止めた。
「へ、え……。こういう偶然って、あるんだ」
 苦笑にも似た笑顔を浮かべる青年に向かい、慌てて立ち上がった朱音が頭を 下げる。
「あ、あの、昨日はどうもありがとうございました」
「どういたしまして。そっちが例の好きな人?」
 からかうような青年の言葉に、朱音が顔を真っ赤にする。僅かに不機嫌そうな 表情を浮かべて修司が朱音へと声を掛けた。
「朱音ちゃん、この人は?」
「あ、ごめんなさい。浅羽のえるさん、昨日、助けてもらったんです」
「助け……?」
 虚を衝かれたような表情を浮かべる修司。ええ、と頷いて朱音が言葉を続けた。
「夜中にそばのコンビニまで買い物に行ったんですけど……その時、痴漢が出て。 たまたま通り掛かった浅羽さんに助けてもらったんです」
「駄目だよ、女の子は気をつけなきゃ。……どうしました? 大滝修司さん?」
 くすくすと笑いながらかけられた言葉に、すっと修司が目を細める。
「お前……何者だ?」
「しゅ、修司さん?」
 びっくりしたような表情を朱音が浮かべる。水瀬恭子を前にしたときと同じ、 刃物を思わせる剣呑さ。くすっと笑ってのえるが肩をすくめた。
「分からないんですか? ボクが? 『のえる』だなんて名前、そうあちこちに 転がってるもんでもないと思いますけど。ねぇ、修司お兄ちゃん?」
「え? ……ええ? えええっ!?」
 大声を上げる修司。二人の関係を知らない朱音が、状況を把握できずにおろおろと 二人の顔を交互に見つめた。
「の、のえる!?」
「ええ、そうですよ。一目見て分かってくれないだなんて、案外修司さんも 薄情ですよね。たかが十年ぐらい会ってないだけなのに」
 くすくすと笑いながらのえるがそう言う。ぱくぱくと数度口を開閉させ、 修司が目を丸くした。
「だ、な、ええっ?」
「そろそろ落ち着いてもらえませんか? 別に本気で驚いてるわけでもないん でしょう? 最初はともかくとしても。演技過剰は、相変わらずですね」
「……結構、本気で驚いてるんだけどな」
 それでも表情を改めると修司は軽く姿勢を正した。
「で、何の用が?」
「学校見学ですよ。ボクもここを受験する予定なんで。あ、そうそう。 姉さんはどうしてます?」
「瑠佳ならまだ講義を受けてるよ。用があるならここにいるといい」
「や、別に用はないんですけど」
「ちょ、ちょっと、すいません。あの……」
 申し訳なさそうに、朱音が二人の会話に割り込む。ああ、と小さく声を上げて 修司が彼女の方に向き直った。
「ごめんね、朱音ちゃん。こいつは瑠佳の……って、そういや、のえる。何で 浅羽のえるだなんて名乗ったんだ?」
「特に意味はないんですけどね。百合沢さんが姉さんの知り合いだって知ってれば、 ま、土屋を名乗っても良かったんですが。単純に土屋より浅羽のほうが気に いってるんですよ、ボクは。別に初対面の相手に母方の姓を名乗っちゃいけない ってことはないでしょうし」
「姉さん、て、じゃ、瑠佳さんの弟さん……?」
 軽く首をかしげながらの朱音の言葉に、弾けるように修司が笑い出した。 きょとんとした表情を朱音が浮かべる。
「あ、あの、私、何か変なこといいましたか?」
「い、いや、ごめんごめん。無理もないよな、この姿を見てりゃ」
「修司さんだって、あんまり人のことは言えないでしょう?  一目で見抜いてくれなかったんだから」
 からかうようなのえるの言葉。肩をすくめて修司が言葉を返した。
「変装してるんだったら、見抜いてたけどな……。それは、『本物』だろ?」
「趣味と実益を兼ねて、ですね。趣味が八割ですけど」
「え、と……もしかして……?」
 二人の会話から薄々察したのか、朱音が首をかしげる。嘆息しつつ修司が頷いた
「そういうこと。土屋のえる、瑠佳の妹さ。昔は本当に女の子女の子した 可愛い奴だったんだが……十年は長いよなぁ」
「本当、長いですよね。修司さん、あの時の約束、まだ覚えてます?」
「約束……?」
「ああ、やっぱり忘れてますね。ま、期待してませんでしたけど。
 それじゃ、ボクはそろそろ失礼します。人と会う約束があるもので」
 軽く肩をすくめるとのえるはそう言って一礼した。ああ、と、頷いて、ふと思い ついたように修司が問い掛ける。
「人って、瑠佳じゃないんだろ? 誰?」
「恭子さんです。渡すものがあるので」
 軽い口調で放たれた、恭子と言う名前にぴくっと修司が眉を跳ねあげた。
「恭子……?」
「一つ、言い忘れてましたっけ。ボクはね、修司さんや姉さんみたいな多情な人間は 嫌いなんです。そして、恭子さんみたいに一途な人に惹かれる」
 フッと口元に笑みを浮かべるとのえるは左手で前髪をかき上げた。
「だから、あなたが恭子さんの邪魔をするなら、ボクはあなたの敵に回りますよ」
「……今まで恭子の評価はいろいろ聞いてきたが、あいつを『一途』って 形容したのはお前が初めてだな」
「多淫と多情は違いますよ。もっとも、あなたに恭子さんのことは 理解できないでしょうけど。
 そうそう、最後に一つ忠告です。あなたや姉さんが思ってるほど因果の糸は 単純じゃない。恭子さんだけに注目していると、足をすくわれますよ」
「……どこまでが偶然でどこからが作為だ?」
 フッと表情を消して修司がそう問い掛ける。見えない火花を散らし始めた二人を、 不安そうに朱音が見つめた。
「舞台の裏は見せちゃいけない。エンターテイメントの基本ですよね。 ま、昨日ボクが百合沢さんを助けたのも今こうして出会ったのも本当に偶然です。 余りにタイミングがあいすぎて、信じてはもらえないでしょうけど」
「お前、というより、恭子はどこまで知っている? 何を……」
「全知全能にして零知零能。そういうことですよ」
「言葉遊びをしてる暇は……!」
「修司さん! 浅……じゃない、土屋さんも! 喧嘩なんかしないでください!」
 腰を浮かせかけた修司の肩を押さえ、朱音が叫ぶ。びっくりしたような表情を 浮かべて修司とのえるが動きを止めた。
「ぷっ、く……あはははは。怒られちゃいましたね。
 ま、大滝修司を相手に遭遇戦は分が悪いですし、恭子さんの 『お気に入り』に手を出すわけにもいかない。ここはおとなしく引いときますよ。
 今日は青い薔薇も用意していないことですし、ね」
 ひとしきり楽しそうに笑うとのえるがそういう。最後の言葉の意味が 分からなかったのか修司が僅かに眉をひそめ−−。
 そして、朱音がはっとしたように口元を覆った。
「あ、な、た……」
「ボクは只の代理人に過ぎませんが、ね。それじゃ、失礼します」
 くすくすと人をくった笑みを浮かべてのえるが一礼した。一瞬、止めようと 声を上げかけ、だが半ば放心している朱音の姿に修司はそれを思いとどまった。
「朱音ちゃん?」
「……すいません。何も、聞かないでください」
「ま、言いたくないなら無理にとはいわないけどさ」
 拒絶するようにふっと視線を逸らされ、修司は軽く肩をすくめた。
(因果の糸は単純じゃない、か。確かにな……)
 代理人、と、そうのえるは言った。当然、恭子の、だろう。
(だが、朱音ちゃんはのえるのことを知らなかった。どんな関係だ?)
 考えても答えは出ない。内心軽く溜息をつくと修司は頭を掻いた。
(大体、昨日朱音ちゃんが襲われた? そんな話は聞いていないし、有り得ない。 だが、朱音ちゃんが嘘をつくはずもない。となると……潰されたか)
 油断ではない。そう思いたい。だが、状況が最悪に近いのも事実のようだった。
(冗談じゃないぜ……)
 自分の知らないところで歯車が動いている。そんな、嫌な予感がした。

「あれ? 恭子さんは?」
 指定された待ち合せの場所に一人立っている美春の姿を認め、のえるは僅かに首をかしげた。 軽く肩をすくめてみせる美春。
「用ができたそうです。代りに物を受けとっておくように、と」
「ふぅん。ま、いいけど。じゃ、これ」
 一瞬だけ考え込み、のえるは鞄から封筒を取り出した。それを受けとりながら、どうでもよさそうな 表情で美春が問いかける。
「中身は何です?」
「聞いてないの? ・・・大したもんじゃないけどね。ウチで今度開発する自動車の企画書。 父さんの書斎から持ち出すのにちょっと苦労させられちゃったよ。ま、それだけ重要なものって ことなんだろうけど」
「自動車、ですか。直接恭子さんには関係のない分野ですねぇ」
「うん。ちょっとした遊びか嫌がらせってとこじゃないの?
 ああ、そうそう。ここに来る途中で朱音ちゃんと修司さんに会ったよ」
 軽い口調のまま、のえるがそう言う。僅かに美春が眉をしかめた。
「会った?」
「ついでに、ボクが恭子さんの味方だって教えてきた。ま、宣戦布告ってことで」
「軽率ではないですか? 知らせずにおけば、有利に働く可能性もあったというのに・・・」
 僅かに咎めるような口調で美春がそう言う。のえるは軽く肩をすくめた。
「いいじゃない、別に。この方が面白くなるよ。それに……」
 すっと右腕を上げ、春日の左目を指差すのえる。
「左目が無事な人に、指図される筋合いはないけど?」
「……どうやらあなたは、勘違いをしているようですね」
「勘違い?」
 静かな笑みを浮かべる美春に、特に気圧されたふうもなくのえるが問い返す。
「あなたが恭子さんの命令で薔薇を届けている相手、誰だか知っていますか?」
「もちろん。百合沢ゆかり……朱音ちゃんのお姉さんでしょ? 何年か前、 恭子さんがちょっとした遊びで『心』を壊してみた女。どうして花を贈るのか、 何て、興味ないから聞いたことないけど……そういうこと?」
 不意に話題を変えられて、一瞬戸惑いながらのえるがそう答える。が、答えながら 正解に気付いたのか、僅かに眉をひそめた。
「私の、最愛の女性でした」
「ふぅん。……それで?」
 どうでもよさそうな表情でのえるがそう問い掛ける。同じくどうでもよさそうな 表情で美春は肩をすくめてみせた。
「別にそれだけの話です。ただ、あなたがこだわっていたようなので」
「……くだらないこだわりかな?」
 左手で自分の左目を覆いながらのえるがそう問い掛ける。くすりと美春が笑った。
「本人にとって意味があれば充分でしょう?」
「それもそうか。……一つ、聞いてもいいかな?」
「どうぞ。私に答えられることなら」
「恭子さんは、何を望んでいるのかな。今回の、ただの遊びにしては仕掛けが 大きすぎるとは思わない? しかも、駒と駒とが互いに存在を知らされていない。 誰が敵で誰が味方なのかすらも分からないなんて……」
 きりっと親指の爪を噛み、のえるがそう言う。美春が眉をしかめた。
「確かに、それは私も気になっていました。実際、私とあなたの出会いは 最悪だったわけですし。今回の件に関しては、恭子さんの行動に一貫性がない。 まるで迷っているような……」
 ほんの一時期だが、美春とのえるは対立した。のえるが『土屋』の 人間であるが故に。
 そして、朱音と冬馬が接触したのが四月の初めなのに、恭子が動き始めたのは 六月も終りになってからだ。美春が二人の噂を耳にしたのは四月の半ば 過ぎだから、恭子もその頃には知っていたはずなのに、である。
「あの人のことを理解なんて出来ないってことかな」
 自嘲するようにのえるがそう言う。軽く肩をすくめただけで美春は答えない。 のえるが答えを欲しがっていないことは明白だったから。

「この前、授業で童話を扱ったんです」
 修司の隣に腰をおろし、少し俯き加減で朱音がそう言った。うん、と、 頷いただけで修司は無理に先を促そうとはしない。
「扱ったのは有名な話ばっかりだったんですけど、その時、参考資料として、 原話のプリントも配られたんですよね」
「ちなみに、何をやったの?」
「『人魚姫』と『シンデレラ』、それに『かちかち山』です。それで、プリントには 原話だって事は書いてなくて、読んだ感想を小グループで話し合うっていうのが 授業の内容だったんですけど、私のグループの子で一人、怖い事を言った 子がいたんです。『名作をこんな風に作り替えてしまうなんて許せない』って」
 くっと僅かに修司が笑った。嘲笑というには軽く、苦笑というには重い笑いで。
「それはまぁ、童話らしくないものな、三つとも。人魚姫は天国に行き、 意地悪な継母と姉たちは玉の輿に乗れなかった代わりに傷付くこともなく、 そしてかちかち山では誰も死なない。そんな、めでたしめでたしで終わる話しか 知らなけりゃそう思っても無理はないか」
「ええ……。でも、私が『怖い』と思ったのは、『知らなかった』からじゃないんです。 修司さんなら、分かるんじゃありませんか?」
「自分の知っていることが真実の全てだと思うこと、そして、その『真実』から はみ出すものを『嘘』として除外すること、かな?」
 どこか冗談めかしたおどけた口調で修司がそう言う。 こくんと頷いて朱音は言葉を続けた。
「それと、それに無自覚であることも、です。私も、意識してそうならないように 気をつけてはいますけど、多分、少しはそういうことをやってるんじゃ ないかな、って。事実は一つでも、真実は人の数だけあるって、頭では 分かっていても感情がついていかないこともありますから」
「……つまりは、俺たちの−−俺と瑠佳の、恭子に対する態度のことか」
 からかうように口元を歪め、だが瞳だけは笑っていない。修司の言葉に、 朱音は小さく笑った。
「本当に、修司さんは勘がいいですよね。昔からそうだったんでしょう?」
「ま、ね。それで?」
「他人の口から聞いた評価は、信用しない方がいい。その評価はその人にとっては 正当なものかもしれないけど、自分にとってもそうであるとは限らないから。
 知ってますか? 例えば瑠佳さん、人によってはあの人のことを『男を弄ぶ悪女』 って評価するんですよ」
「悪女、ねぇ……。今日はいろいろ面白い評価の聞ける日だな」
 苦笑する修司。恭子に対する『一途な人』といい、瑠佳に対する 『男を弄ぶ悪女』といい、本人の持つイメージとは大きくかけ離れている。 二つの評価を逆転させればぴったりなのだが。
「それでも、それはその人にとっての『真実』なんです。たとえ事実と 異なっているとしても」
「恭子と『お友達』になりたいんなら、やめといたほうがいいな。火傷じゃ 済まなくなる」
 それは、心からの忠告。だが、同時に分かってしまっている。
 一度こうと決めたら、引かない性格を彼女がしていることぐらいは。
「気にしないではいられない、か。冬馬の心にいる女のことは」
「本当に、冬馬さんのことを思っているのなら−−冬馬さんのことを 幸せにしてくれるんなら、私、いいんです。でも、もし違うとしたら……。
 思い上がりだって、笑いますか? 私のこと」
「笑わないけどね。だけど、王子様を諦めた人魚姫は幸せにはなれなかったんだよ。 どうせなら、何がなんでも手にいれてやる、ぐらいの気持ちでいなくちゃ」
 修司の言葉に、朱音が笑った。俯き、落ちかかってきた髪で顔を隠しながら。
「最近じゃ、泡になった後で天国に行けるそうですから」 
後書き
 どうも、随分と間が空いてしまいました。次はもうちょっと早くお届けしたいと…… 思っていますが予定は未定かも<^^;
 とりあえず、プロットだけはちゃんと立っているんですけどね。次の話は少し 時間を巻き戻して五月の初め頃のお話です。その次がもっと時間を戻して(笑)、 二年前。気の長い話ですが、どうぞもう暫くお付き合いくださいませ。
 そうそう、詩の方にもこの話と連動した物が載せてありますので、そちらも 見てみてください。ダミーの一つはのえるのものですんで、それも含めて当てられた 人は凄いです。当たっても商品はありませんけど、ね(笑) 
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