王道勇者
 
<表紙> <配役紹介> <用語解説> <目次>

by 中村嵐
13th SCENE 不確定要素  
 ブラウンは机上の地図を押し黙って眺めている。パルフェが持ってきた珈琲を、黙ってすする。
「そろそろか」
「え?」
「カトルが北の塔を落とせば、魔王城が出現する可能性はあるな」
「でも、塔は4つなんだろ?」
「少なくとも3つで城は出る。但し、2つでも城の磁場はだいぶ不安定になるはずだし、それに奴らは、どうやら城を隠したくて隠しているわけではないようだしな」
「ま、確かに、これだけ領内を荒らされても本軍が出てくる気配が一向にないけどさ…」
「まあ、ある程度実力を持った者を待っているという可能性はある。塔にいる魔神は4体とも同レベルだろうから、一人は偶然でも、2匹なら実力が備わっている、ということになる。まあ、魔神といっても所詮土着レベル、たかが魔族のゲオルグに使役されるぐらいだからカトルなら4人倒すのは苦ではないと思うがな」
「…姉貴、土着レベルってどういうこと?」
「例えば河童やお稲荷さまだって神様だけとアウロアやムースと比べたら失礼でしょ? っていうレベル」
「…お稲荷さまって何だ?」
「気にしない、気にしない」
「まあ、私としてはカトルの近くにいるほうがゲオルク城には忍びやすい。そろそろ姫様のお尻でも叩くとするか」
 
 ソフィアがすくっと立ち上がる。隣で事務をしていたクリフが目をぱちくりさせた。
「ど、どうなされました、姉上?」
「まったく、あのお姫様はバカというか、何というか…」
「ほんと、狂気の、沙汰、としか、いいようが、ない、そんな、とこ、ね」
「ど、どうかしたのですか?」
「…ミルキーの部隊が突っ込んできます」
「は、はあ? な、何故? 今あの部隊がここを攻める理由など…」
「無いからバカとしかいいようがないのでしょう。クリフ、防戦しつつ海岸の方に引きなさい。迎撃したり、深追いする必要はありません」
「そ、それは構いませんが…姉上!?」
 ソフィアはクリフに返答せず、黙って天幕から外に出た。
 
「うわぁぁぁ!」
 アドレアの斥候がベオ・ウルフの爪に引き裂かれる。真正面から攻めてきて、逆にしかし、アドレアは浮き足だった。
「あっはっはっ! やはり血の色はいいよのう。やはり戦いこそが我が本懐。様子見するなど似合わぬわ…」
 ジャン・バラヤが楽しそうに唸る。そして背後の配下たちに向かって号令をかける。
「野郎共、アドレアの人間どもを皆殺しにしやがれ!」
「ウォォーン!」
 ベオ・ウルフたちが一斉にアドレアの陣地に雪崩れ込んだ。阿鼻叫喚の戦闘絵図。アドレアも応戦し、ベオウルフたちも倒れていくが、戦いの狂気に取りつかれたモンスターたちは、仲間の死骸を踏みつけてでも敵陣に切りこんでいく。実力的にアドレアの軍が劣るわけではないが、今回ばかりは押されている。
「耐えろ! 姫様をお守りするのだ!」
 ジェイドの号令がかかり、陣形さえ保つものの死傷者は増え、軍はどんどん後退する。それもソフィアの指示とはいえ、ベオウルフたちは攻撃の手を休めない。
「くっ! 姉上、いつまで耐えれば…」
 戦闘に立って敵を切るクリフの顔に疲労が浮かぶ。パッと影が走り、頭上を見上げる。
「な、なにっ!?」
 それは少女であった。しかし、人とは思えぬ跳躍力でアドレアの陣地を飛び越える。馬車の上に着地すると掌から氷の魔法を発し、近くの兵を凍らせる。下に降りてその兵を爪で砕くと、疾風の如く陣地を駆け、次々に兵士たちを切り裂いていく。彼女が口笛を吹くと、パタッとベオウルフたちの攻撃がやんで一歩退く。その先頭にミルキーが立った。
「アドレアの王子、シルディよ! いつまで部下達を無駄死にさせるつもりだ? 早く出て来い! 出てこないと素性をバラすぞ!」
 ざわめくアドレア。多少して、陣地が割れてシルディが姿をあらわす。
「ふん、やっと来たか。カトルを出してもらおうか?」
「悪いけど、本人にその気が無いみたいなの」
「フン、往生際の悪い奴よのう」 
シャン、とミルキーが腕を振る。爪が伸び、犬歯が牙となる。そして胸と腕の筋肉が盛り上がって、上半身の服がやぶけた。シルディは昴を構え、北斗が回転を始める。
「シャー!」
「はあっ!」
 北斗をかいくぐりながら、懐に飛び込むミルキー。その攻撃を昴で弾く。ミルキーがパッと飛び退くと、彼女が元いた場所に一斉に北斗が集まって、またシルディの周りに旋回する。
「ふん、ちょっとは腕を挙げたようではないか」
「そっちこそ、魔法使いなんでしょ? 格闘戦でいいのかな?」
「ふん、王家の血統の違いを見せ付けてやるわ!」
 
その戦いを見下ろせる位置にある小高い丘。転移の術でソフィアが姿を見せる。その先に立つのは、ブラウンにカムカム姉妹である。
「部下達を見殺しにして、こんなとこに来ている場合なのかい?」
「あなたこそ、こんな無益な戦いに仲間を狩りたてて心が痛まないのかしら?」
「これはこれは、心外だな。せっかくそちらの魔族討伐に力を貸してあげているというのに」
 ソフィアがきっと睨み付ける。それに気付いたアンジェがすがるようにブラウンに身をくっつける。ブラウンは戦場の方から視線を外さない。
「カトルならば、北の塔に向かいました。そっちに行ってくださらないかしら?」
「またまた、そんなことを言われても信じられないな。それで背後から襲う魂胆か?」
 この男はわかっているはずだ。それを承知で、その上で何をしようとしているのか。この男の魂胆がわからぬ限り、今後の立案に支障をきたすのだ。
「あなた…勇者と呼ばれているけれど、ディザードを倒したのは偶然で、そもそもは賢者畑の人のはず…そのあなたがこうしてヴァルボリ島まで来ているのは何故かしら?」
「さあ、あなたに教えても何の利益もなさそうだしね」
「あなたほどの実力があれば、我が軍に迎えてもよろしいのよ?」
「ふぅむ、確かに手元においておけば監視できるかもしれないが、私はカトルやシモンのようには行かないが?」
「さきほど、利益は無いと言いましたけれど、私達が対立するのは不益しか産まないのではないかしら?」
「ま、直接対立はしていないからね」
「ソ、フィア。この人を、相手にしても、どうし、ようもないわ。自分勝手、なだけ」
 それは言われなくてもわかってはいる。しかし、この男をなんとかしなければ、この先不確定要素を数多く生み出す元になるのは間違いない。かといって本気で信頼できる相手でもない。心の中では、埒があかなければいっそこの手で、とまで考えている。
 そしていよいよ、それを実行に移そうと念を入れようとした瞬間、人の気配がしてソフィアは身震いする。本当に、突然それは現れた。悪寒がしたといってもいい。
「まったく、ブラウンは相変わらずレディの扱いがなっていませんねえ」
「…兄者。どうしてこのようなところに?」
 ブラウンとソフィア、ちょうど二人の中間点に黒衣の男が現れた。美形、といっていい彼は20代後半から30前後に見える。白の長髪が丘の上の強い風になびいている。
「お前がなかなか面白いものを探しているようなので、ちょっと気になって来てみただけです」
「兄者。これは私個人のことですので…」
「そうも言えないのです、ブラウン。尊師がいたく興味を示されておられる。ぜがひでも回収せよと言われておられる」
「尊師が!? …兄者、また要らぬことを言われて…」
「これは暴言ですね。兄弟がなにをしているか、報告するのが長兄の義務と言うもので…おおっと、これは失礼致しました、ソフィア・エル・ミスティーク?」
「い、いえ、ひさびさの兄弟の再会でありましょうから…」
 そうは言いつつも、自分にまったく気配を見せず、そして今もまったく力を読むことのできない彼に、ソフィアはしばらくぶりかの恐怖を感じていた。
「恐怖? そんな、私がそんなこと…」
「わたし、ケルツハウトと名乗るものです。以後お見知りおきを…」
「ケルツハウト?」
「ええ、闇のケルツハウトです」
「闇の!? ま、まさか黒薔薇会の!?」
 一瞬にしてソフィアが青ざめる。それをいぶかしりながら、パルフェがブラウンに聞く。
「あんた、一人っ子って言ってなかったっけ?」
「後でな…」
「く、黒薔薇会が、このような辺境の地に何の御用なのかしら?」
「いえいえ、これはブラウンの私用に、私が手を貸そうとしているだけですから。他の者たちは来ないはずですから何の御心配も要りませんよ、レディ?」
「兄者、別に私は一人で充分ですから」
「まったく、素っ気無いのは相変わらずですね。せっかく末弟のためにこうして来ているというのに…少しは人の好意を受け入れたらどうなのです?」
「兄者は引っ掻き回すからです。グレック兄さんに言いますからね」
「おや、それは困りましたな。しかし、その時には既に事済んでますからね」
 口論を続ける二人を見ながら、ソフィアは軽い眩暈を覚える。もし、本当に黒薔薇会で、ブラウンが七色聖の末弟だとすれば…その長兄、ケルツハウトの実力はブラウンの比ではない。だとすれば自分とてかなう相手ではないかもしれない…そう、もはや自分の手のうちに事態は収まらなくなりつつあるということをしめしているのだ。 
 
「そこだっ!」
 ミルキーがシルディの懐に飛び込んだ。取っ組み合う形になって地面を転がる。最終的にミルキーが上になった。しかし、止めを加えようとすれば北斗でミルキーの命もない。それをわかってか、そのまま時間が過ぎる。
「シルディ、素直にカトルを出さぬか?」
「知らないね。あんな勝手にどこか行っちゃう奴なんか…」
「フン、捨てられたか?」
「!? 彼はただ自分に素直なだけだ!」
 シルディが右足を蹴り上げる。それを契機にミルキーが飛び跳ねる。間合いを取りながら氷の飛礫を撒き散らす。それを北斗で弾きながら、ミルキーに迫るシルディ。ミルキーが軌道を変え、一気に詰めてくる。弾き合い、間合いが三歩ほど離れる。そしてシルディの頭に、カトルが浮かぶ。
「見様見真似で!」
「なっ!?」
 身を翻すシルディ。回転切りだ。カトルのように剣の軌道が円に見えるほど高速に回転できないが、遠心力はついている。それに実際は隙だらけなのだが、予想だにしなかった攻撃にミルキーは両手の爪でそれを受ける。
「カトルの奴、余計なことを教えおって!」
「…どこで教えてもらったと思う?」
「はあ?」
 さっきの仕返しとばかりに、シルディがミルキーの耳元でささやいた。
「床だよ」
「な、なっ!?」
 取り敢えず飛び退くミルキー。シルディは勝ち誇った女の顔だ。ギリギリと歯軋りする。
「き、貴様〜!?」
「ミルキー様?」
「邪魔をするな、ジャン!」
「その、ブラウンより連絡が入りまして、カトルは北の塔に向かったらしいと…」
「な、なんだと!?」
 それは嘘だ。出陣前に、ブラウンから頃合を見て伝えるように言われていたのである。ジャンがブラウンの入れ知恵に協力したのは、ただ単に彼が戦いたかったからという非常に明確な理由からである。
「全軍、北へー!」
 ミルキーはそう叫ぶと翼を生やして空を飛ぶ。ベオウルフたちもその後に続いた。シルディも剣を納めると叫ぶ。
「誰か、馬を! 馬を引けい!」
 愛馬の白馬が引き出される。そこにクリフが駆け寄ってきた。
「お、王子!? どえなされるつもりです!」
「僕のこと怒らせたらどうなるか、あのバカにわからせてやるっ!」
 そういうやシルディは馬を走らせる。それを見ていたブラウンが背中を向ける。
「さて、これでお守りも解けたことだし、我々もカトルのもとに向かうとしよう」
「フフ、あなたって意外と律儀だったのね?」
「おかしいか?」
「ううん、惚れ直したわ」


by 夢☆幻
14th それぞれの思惑

「いいかげん、くたばっちまえよっ! おっさん!」
「失礼ですネ! 私のどこがおっさんなんデス!?」
 互いに激しく言葉をかわしながら、シモンとブラッドが戦いを続けている。それはいいのだが、シモンの攻撃は専ら火系だし、ブラッドもその剣に炎をまとわせているというのは、戦場が
森の中である、ということを考えればかなり問題だ。互いが躱した、あるいは弾いた炎が周囲の樹に燃え移り、周囲は既に火の海と化している。
「あの馬鹿……!」
 振りかかる火の粉から両腕で頭を庇いつつ、レディが憤然とした表情を浮かべる。カトルやエクレアはまだ鎧を身に付けているからいいようなものの、ごく軽装の彼女にはそろそろ熱気
がたまらなくなってきた。ならさっさとこの場を離れてしまえばよさそうなものだが、同行者二人がシモンとブラッドの戦いを注視しているためにそうもいかない。
「それにしても、『南の勇者』と呼ばれるだけの事はありますね。飛行しつつあれだけ高度な攻撃呪文を、しかも連続で操るなんて、クリフ様やソフィア様でも無理なんじゃないでしょうか」
 素直に感嘆の表情を浮かべてエクレアがそう呟いた。その呟きに、思わずレディがぷっと吹き出す。
「あはは、違う、違う。あの馬鹿にそんな高度な技なんて使えっこないってば」
「え? でも、現に……」
 怪訝そうな表情を浮かべてエクレアがレディの方に視線を向ける。実際、エクレアの言うようにシモンは自在に宙を飛びながら攻撃魔法を操っているように見えるのだが……。
「あいつは飛行術どころか一番初歩の風の術だって使えやしないわよ。というより、普通は得手不得手はあるにしても全系統使えるもんなんだけど、あいつの場合は火しか扱えないの
よね。
 あいつが今やってるのは、自分のすぐ側でちっちゃな火球を連続で爆発させて、その爆風で浮かぶ……と言うか、自分をふっとばすって奴よ。ちなみに、攻撃に使ってるのもサイズは
違っても同じ火球だから、単にひたすら火球をばらまいてるだけって言う事も出来るわね。ほら、高度な技っていうよりは単純な力押しって感じがするでしょう? ま、あの単純馬鹿には
お似合いの技だとは思うけど」
「は、はぁ……」
 何と答えていいのかわからずに曖昧な返事をエクレアが返す。レディは全然大した事ではないように言ってはいるが、実際にはとんでもないことなのではないだろうか。それとも、魔法
に関しては素人の自分だからそう感じるだけで、単に威力を上げるだけならば魔法を使うものには難しくもないのだろうか?
「力と技と、どちらかが上ということはないんじゃないかな。いや、むしろ、あれぐらい力にあふれているならば小手先の技などかえって邪魔になるだけだよ。彼の戦い方は正しいと思う」
 じっと戦いを注視したまま、不意にカトルがそう言う。静かながらも妙に説得力のある言葉に、一瞬沈黙したもののレディが不機嫌そうに眉をしかめた。
「ま、それはそうかもしれないけど。でも、周りの人間にしてみればいい迷惑じゃない? 大きな力を持つものは、その力をきちんと制御する義務も持ってると私は思うけど」
「それは、っと!」
 正面から飛んできた火球をカトルが剣で切り払う。爆風に髪をなびかせ、カトルが苦笑を浮かべる。
「確かにこれは、少し傍迷惑かな?」
「少し、じゃなくて、とってもでしょ!」
 レディの言葉に被さるように、樹の倒れる音が連続して響く。エクレアが眉をしかめた。
「このままだと、勝負がつく前にこちらが焼け死にかねないか……?」
「確かに。気にはなるけど、そろそろ逃げないとまずいみたいだ」
 エクレアの独白に頷くと、比較的火勢の弱い方へとカトルが剣を振るう。クリスタルソードによって増幅された『気』の塊が炎を切り払い、道を作った。
「あの、馬鹿……」
 エクレアとカトルに少し遅れて駆けだしながら、レディがちらりと背後を振り返る。炎と黒煙によってほとんど遮られた視界の中で、二つの影が飽くことなき戦いを繰り広げていた……。

 ぶん、と、低い音を立てて壁に掛けられた姿見が震える。口元に微笑をひらめかせつつ、『北の塔』の魔神、タイタニアがそちらへと視線を向けた。
 同じ『魔神』ではあるが、キュベレとは違って彼女の姿やサイズは人間と変わらない。しかも、鮮血の色の唇、深い湖の蒼の瞳、透けるような雪の肌、足元まで伸びたつややかな黒
髪。どれをとっても、絶世のと形容したくなるような完璧な美女の姿だ。身にまとうは、緩やかなウェーブを描く純白の長衣。
 けれど、彼女の姿を見たものが最初に感じるのは陶酔ではなく恐怖だろう。どこがどうとは形容できないものの、確かに彼女は明らかに人間とは異質な存在(もの)だった。
「珍しいわね、イェーガー。私は貴方には嫌われてると思ってたけど」
 鏡に映る、宙に浮かんだ黒い毛の塊にしか見えないモノへと彼女がそう、呼びかける。ぐねぐねと無数の毛を絡み合わせつつ、『西の塔』の魔神イェーガーがタイタニアの脳裏へと思
考を伝えてきた。
(きゅべれがにんげんにたおされたというはなしはしっているな?)
「ええ、もちろん。どうせ、アレのことだから戦ってる最中に食い意地を張ったんでしょ。力はたいしたものだけど、頭の中身は獣並みだったからね」
 軽く肩をすくめつつ、軽蔑を隠そうともせずにタイタニアがそう言う。元々、食欲ばかり旺盛なキュベレの事を馬鹿にしていた部分があったのに加え、人間ごときに倒されたという事で彼
女の中でのキュベレの評価はどん底に近くなっている。
 そんな彼女の感情に気付いているのかいないのか、淡々とした調子でイェーガーが言葉を続ける。
(やつのみたまをさがそうと、こくうにさっきまでおりていたのだが)
「あら、優しいのね。それで? 新しい肉体を作る手伝いをしろっていうの?」
(いや、それが、だい3そうまでおりてもみつからなかったのだ)
「あらあらあら、情けないわね。人間に倒されたぐらいで、4層以下にまで落ちちゃったの? それじゃ、復活するのに最低でも五千年はかかるわね」
 楽しげな笑いを浮かべながら、タイタニアがそう言う。
 そもそも、神族と呼ばれる存在には厳密な意味での『死』は無い。御魂と呼ばれるその本質の部分は、例え肉体が破壊されたとしても決して滅びないからだ。ただ、現世に存在するた
めの拠り所である肉体を失った御魂は、虚空とも狭間とも、あるいは冥界とも呼ばれる虚無の世界に落ちてしまう。虚空は全部で5層になった多重空間で、魂の受けた損傷が激しけれ
ば激しいほど、その深い部分に落ちることになる。
 第1層なら人間や動物、下級の魔族などでも復活は可能だが、第2層となると魔族の中でもかなりの実力者とみなされる者で無ければ復活は出来ない。そして、第3層が『現世に肉
体を保ったまま降りられる』最も深い場所で、神族、そして本当にごく一部の上級魔族だけがここから復活できる。また、ここまでならば、他の存在が『降りていって』拾いあげる事によ
り、ごく短気間での復活も可能である。
 第4層、第5層ともなると、復活が可能なのは神族だけであり、しかもその復活には数千年単位の長い時間がかかる。ただ、この辺りまで落ちるほどの損傷は、神族の力をもってして
もなかなか与えられない。ここまで御魂を落とされてしまったのが、いわゆる、『神々の戦いに破れて封じられた神』などという存在だ。
 ちなみに、ゲオルグの居城は、現在はこの虚空の第1層に存在している。本来は、四つの塔の魔神の力で強引に空間を安定させ、第2層に位置していたのだが、キュベレが倒された
事によりより浅い部分へと浮上した形だ。
(きみょうだとはおもわぬか? いかにゆだんしていたとはいえ、きゅべれもしんぞくのいちいんだ。それが、にんげんをあいてにそれほどのだめーじをうけるなど、まずありえぬはなしだ)
「まあ……ね。でも、至難ではあっても絶対にありえないというわけじゃないし、現実に起きてしまった事を否定してもしかたないんじゃない?」
(ぐうぜんとひつぜんは、つねにげんみつにくべつされるべきではないか?)
 ぷうっと、毛玉が一回膨れてからすぼまるという動作をする。苦笑を浮かべながらタイタニアが肩をすくめる。
「どこまでが偶然でどこからが必然かは、神のみぞ知るって奴じゃないの?」
(われには、うらがあるようにおもえてならぬ。つぎににんげんどもがめざすのは、おまえのとうだ。せいぜい、きをつけるがよい)
 ぐるんと身体を回転させつつ、イェーガーがそう言う。無数に絡み合った黒い毛の影に、ぬらりと光る巨大な瞳が一瞬見えた。
「御忠告、確かに承りましたわ。それで、話はおしまい?」
(ああ。くれぐれも、きをつけてな)
 ぶぅん、と、再び姿見が低い音をたて、毛玉の映像が消える。軽く苦笑を浮かべるとタイタニアは姿身に背を向けた。
「ふぅん、キュベレを、ねぇ。楽しませてもらえるのかしらね、私も」
 悠久の時を生きる彼女にとって、自らの敗北の可能性などというのは、たいした問題では無いのだろう。口元に優雅な笑みをひらめかせるとタイタニアは目の前の空間に幻影を生み出
した。
「私を、がっかりさせないでよね、勇者様」
 赤毛の少年の幻影へと、艶然とした笑みを浮かべながら彼女はそう、呼びかけた。

「……血に依りて盟す、闇に依りて盟す。虚ろなる器、失われし光、姿を変え我が手に宿らん事を。我は求めたり、我は訴えたり。天の理、地の理、逆しに行いて逆しに生ぜんことを…
…」
 闇の中に、陰々としたゲオルグの声が響く。魔王宮の最深部、ゲオルグのみが立ちいることを許された『闇の間』の中に膨大な力が渦を巻く。
 彼の視線の先には、ほとんどまっぷたつになった魔神キュベレの姿がある。実体では無い。御魂と呼ばれるその本質の部分が、肉体を破壊された時の姿を映しているのだ。
 それがここにあるのならば、イェーガーが捜してもみつからなかったのも、当然のことだ。落ちてきたキュベレの御魂を、ゲオルグが密かに回収していたのならば。だが、何のために?
 ぐにゃり、と、不意にキュベレの姿が崩れた。熱せられた蝋のようにとろとろと床の上に流れ落ち、わだかまる。ゲオルグの咒が続くにつれ、液体状になったキュベレの御魂がふるふる
と震えながら別の姿へと形を変えていく。
「意思なき力よ、我が手に宿れ。我は汝に形を与えん。我が敵を裂く刃として、黄泉還えれ」
 ゲオルグの咒が終わる。その頃には、元はキュベレの姿をしていたものは、一振りの剣へと姿を変えていた。ファルシオンに似た、湾曲した刀身をもつ片刃の剣だ。白い刀身には、赤
いラインが何本も走っている。
 ゲオルグが右手を伸ばすと、その剣が自分から彼の手の中へと飛びこんできた。パリパリと雷光を放つその剣を、ごく無造作にゲオルグが振るう。刹那、すさまじい雷撃が闇を白く染
め上げた。
「ふむ、この程度か。予想よりは、多少威力が弱いな……。それだけ、受けた損傷が激しかったという事か。勇者カトル……侮れんな」
 そう呟きながら、ゲオルグが自らの影へと剣を落とす。すっと影に飲みこまれて剣が姿を消した。
「だが、まあ、かまうまい。まだ三人、残っているわけだしな。その全ては手に入れられはしないだろうが、後一つ二つであれば何とかなるだろう。まぁ、それも、あの勇者たちが魔神を倒
せれば、の話だが」
 ゲオルグの力は、他の魔族とは少し毛色が違う。他者の魂を取りこみ、自らの力へと変える事が出来るのだ。魂食らい、と、そう呼ばれる、珍しい属性を彼は持っている。
 ソフィアもそうだが、こういう他者の力を取りこむタイプは、自分本来の力は実はたいした事がない。ただ、実質無限大に自分を強化していく事が可能であり、他者の力を利用するなど
して自分よりも強い力を持つものの魂を手に入れる事が出来れば、ごく簡単に強大な力を手に入れられる。
 ゲオルグが今回狙っているのは、そのものずばり、神の力だ。階級は低いものの、それでもれっきとした神族である魔神たちに、ムースの力を濃く受け継いでいるシルディ。それらの
力をすべて手に入れる事が出来れば、自らを神に匹敵する強大な存在にする事すら不可能ではなくなるだろう。
「神は、盟約には縛られる。我が生け贄を捧げる限り、彼らは塔を守り、戦う義務がある。人間に過ぎぬとはいえ、勇者と呼ばれるだけの力を持つものたちだ。この世界では自らの力を
完全には振るえぬ魔神たちを倒す事は、難しくはあっても不可能ではない」
 そう確認するように独白すると、ゲオルグは軽く目を閉じた。キュベレの力を取りこんだ今、魔神と互角に戦う事も既に不可能ではなくなっている。勇者たちとの戦いで傷ついた魔神な
らば、倒す事も充分に可能だ。最悪、次の魔神戦で勇者たちが全滅したとしても、キュベレを倒したほどの力を持つカトルや神剣を持つシルディの力は取りこめるわけで、傷ついた魔神
を倒す事は比較的容易だろう。そして、魔神二人分の力を取りこめば、自力で残る魔神をくだしていく事も出来なくはない。
「面倒だから、出来れば勇者たちの活躍に期待したいところではあるが、な……」
 そう呟くと、ゲオルグは闇の間を後にした。その時が来るまでは、勇者たちに手は出すべきではない。打倒勇者に燃える配下のものたちを、暴発させない様に注意をしておくべきだろ
う。
 胸の奥に燃える野望を、かけらも感じさせない無表情でゲオルグは玉座に付く。自らの望みを叶えるその時を、じっと待ちながら。

「あらあら、シルディ様はお一人で?」
 あまり緊張感のない声が背後から掛けられる。慌てて振り返ったクリフはそこに姉の姿を認めて肩から力を抜いた。
「どこに行っていたんです? 姉さん」
「物事は、そうそう思い通りには運んではくれないということを実感しに、かしらね」
「は?」
「少し予定を変えるわ、クリフ。あなたはとりあえず、ジェイド将軍と一緒に軍をまとめて。まとまり次第、シルディ様を追いかけるから」
 意外と、というと失礼かもしれないが、ミルキー軍の動きは統率が取れている。今はまだ多少の混乱を残してはいるものの、彼らが完全に撤退するまでにそうは時間はいらないだろ
う。軽く溜息をつきつつそう状況を見て取るとソフィアはクリフへと視線を戻した。
「どうしたの? 聞こえなかった?」
「い、いえ、しかし、姉さん。予定を変える、とは?」
「本当は、他の勇者たちに先行してもらいたかったんだけど……少なくとも、勇者ブラウンよりは先に行く必要が出来たみたいだから、ね。彼は危険だわ」
「危険?」
「黒薔薇会の七色聖。何が目的なのかは知らないけど……力で対抗するには分の悪い相手だわ。単に名声が目的とも思えないけれど、ね」
 カトルは、問題ない。彼が求めているのは、強敵と戦うことであり、魔王を倒した後に得られる名声だの財宝だのには何の興味も示さないだろうから。魔王を倒したという手柄を、アドレ
アが横取りしたところで何とも思わないだろう。むしろ、わずらわしさを避けるために積極的に協力してくれるかもしれない。
 シモンは、求めているのが名声と財宝だから、手柄を横取りされそうになれば反発するだろう。だが、性格も魔力も単純な彼を罠にはめ、始末することはそう難しくはない。正面から戦
うのは危険でも、絡め手から攻めればいくらでも手のうちようはある。
 ブラウンも、カトルと同じく、名声や財宝には興味がないものだと思っていた。おそらくは、魔王の持つ魔法技術か何かに興味があり、それを手に入れるのが目的だろう、と、そう考えて
いたのだ。もちろん今でもその考えは捨てきれてはいないが、裏に黒薔薇会が居るとなると話は少し変わってくる。
「黒薔薇会……確か、北方の魔術士の互助団体、でしたか?」
「そう。元々、あの辺りは迷信深いから。随分と前の話だけど、魔術を使うだけで魔族の手先呼ばわりされ、処刑されることすらあったらしいわ。そういう背景を元に、魔術士たちが身を守
るために結成した組合みたいなものだったのね、最初は。
 でも、長い時の流れの中で、次第に組織が変質するのはある意味では必然。今の黒薔薇会はほとんど秘密結社みたいなものよ。何を考えているのか、外からでは図り知れないわ」
 クリフとの問いに、すらすらとそう答えるとふぅと軽くソフィアは溜息をついた。
「魔王を倒した、というのは、格好の宣伝材料になるでしょうね。魔術士は、魔族と戦うためには必要な存在だとアピールできれば、北方での魔術士の地位は格段に向上するんじゃない
かしら。もっとも、彼らの目的がそれほど単純かどうかは分からないけど、かといって手柄を黙って横取りはされてくれないでしょうからね。彼らに先を越されるわけにはいかないのよ。
 大切なのは、魔王を倒したという名声を得るのは、アドレアの神剣使いでなければならない、ということ。長期的に見れば、出現するかどうか分からない『勇者』に人間の世界を守る役
目を期待するわけにはいかないもの。アドレアがなんとかしてくれるに違いない、心配することはない、と誰もが思っていなければ、圧倒的な力を持つ魔族の脅威の前に人の心なんてた
やすく崩れてしまうのだから。例えそれが虚名に過ぎないとしても、ね」
「姉さん……?」
「……おしゃべりが、すぎたわね。クリフ、シルディ様の居場所は、把握しているんでしょう?」
「え、ええ、それは。とっさに風霊を飛ばしましたから、それは問題ないですけど」
「なら、急いで軍をまとめて。恋は盲目、と、よく言うけれど、今のシルディ様はあまり周囲が見えていらっしゃらないようだから。少しでも冷静に考えれば、どこに居るか分からないカトル
様を闇雲に追いかけるよりも、居場所を把握している私なりあなたなりに確認を取る方が早い、なんてこと、すぐに分かりそうなものなんだけど」
 そういって軽く左右に頭を振ると、ソフィアはもう一度溜息をついた。
(今の戦力で、魔王と正面からぶつかるのは、どう考えても得策ではないのだけれど……。レディさん、だったかしら? 彼女が、勇者シモンに対する人質になってくれれば少しは楽かし
らね?)
 そうやって、人を陥れることばかり考えてしまう自分が嫌になることがないといえば嘘になる。けれど、今はそれが必要とされているのだ。



by 中村嵐
15th SCENE 北の塔  
 
北の塔は、海を見渡せる広い丘にあった。木々はまだらで、丈の短い草がみっしりと一面を埋める。踏みしめる土はもろくぱさついている。
 灯台のようにも思えるが、実用的に見ればもっと海よりに建てて然るべきである。東の塔と同じく、灰色の石が剥き出しの壁。無意味に思える、自分の背丈の倍はある鉄の扉の前に
立ってカトルが手を触れる。軽く押しているようにも思えた。しばらくすると、振りかえって海を眺めながらぽりぽりと頭を掻いている。
「…おい、どうした?」
 エクレアがいぶかしむ。海風が彼女のさらさらの黒髪を流している。カトルはこんこんとバックハンドで扉を叩いた。
「どうやって開けようかなあって…」
「どうやってって…東の時はどうした?」
「開いてたよ」
 それっきり会話が止まる。エクレアは呆然としてし言葉が続かないし、カトルも黙って塔を見上げている。羽をパタパタと動かして滞空していたキルシュが、疲れたのかカトルの左肩に
腰掛けた。そして金髪を指で梳かしはじめる。
「あ〜もう、潮風で髪がベタベタしてきたじゃないの?」
「あれ、キルシュってお風呂とか入るの?」
「あんた、バカ? 女に向かって何言ってんの?」
 マイペースとマイペースだから融合してしまうのかどうかは知らない。二人ともさして慌てた素振りもなく、ただ風だけが強い。
 唐突に、しかしゆっくりと、鉄の扉が鈍い音を響かせながら内側に開いていく。心臓が縮むような恐怖を感じて、エクレアがびくっと震える。
「ふぅん…気が利くんだねえ、ここの人」
 呑気な台詞を吐いた後、カトルは何のためらいもなく歩き出す。凍った表情で彼の行動を見守るエクレア。キルシュが肩から飛びあがると、彼に先行して暗闇の中に飛び込んだ。
「どうせなら灯りもつけて欲しいわよね?」
 階段に沿って、順々にたいまつがともっていく。それを追うようにして階段を登るカトル。後に続くキルシュ。エクレアの手が宙をつかむ。
「お、おい?」
 足が震えて動かない。入ってしまったら、生きては帰れないかもしれない。しかし、騎士たるものが死の恐怖に躊躇を覚えることがあっても、任務を放棄することはありえない。大きく息
を吸って気合を入れると、階段を駆け登ってカトルの後ろにつく。
 螺旋階段を登りきると広間に出た。高さ的にはまだ中間だが、東の塔の頂上のような、周りの壁の無いバルコニー風である。上に登る階段は見当たらない。二、三歩歩み出て、カトル
は敵の気配を感じようと鋭い視線で辺りを探る。階下から恐る恐る顔を出したエクレアは、おどおどと周りを見回している。カトルの前に出たキルシュが大声で叫ぶ。
「ほ〜らっ、お望みどおり来てやったわよっ!」
 スゥーと、音も無く、広場の中央に人の姿が現れる。あれが魔神なのだろうが、見た目は人としか形容できない。どこぞの神官のような服装で、床につくような黒髪。その顔の美しさ
は、まさに女神とでも言うような美しさ。
「まったく、最近の人間どもは無粋で困りますわ…」
 そう言って気だるそうに髪をかきあげる。その仕草だけで、エクレアは恐怖で鳥肌が立つ。動いたら殺されるような威圧感が足を縛り、寒気で震えが止まらない。キルシュはカトルの肩
に止まった。
「よかったわね、アンタ。誉められてるわよ?」
「そうなの?」
「…久々のお客様だから、もてなしてあげようかとも思ったけど…」
 すうっと右手を上げる。雪のように白い白い指先を、カトルの方に向ける。獲物を狙う獅子のような目つきになると、瞳が黒から赤に変わった。
「死ね」
 カトルが左に跳ねる。キルシュは彼の鎧の中に潜り込んだ。後方の低い壁が粉々に砕けた。エクレアはその衝撃で床に倒れる。カトルは床を蹴って直角の動きでタイタニアの懐目掛
けて駆け寄る。不敵に笑いながら待ち構える彼女。クリスタルソードの柄を抜く。タイタニアはすらっと床を滑るようにしてよける。次々と斬りかかるカトルの剣の合間を踊るように。やがて
カトルが構えたまま動かなくなる。
「…お疲れになられたかしら?」
「まだ若いから大丈夫です」
「あら、そう!」
 くわっとタイタニアがカトルを睨むと、二人の間の空気が歪む。衝撃を食らってカトルが後ろに吹っ飛んだ。ダン、ダンと大きく床を跳ねてカトルが端まで転がる。エクレアが駆け寄った。
「カ、カトル!?」
「大丈夫…受身は取った…」
「ちょっとあなた?」
「え?」
 エクレアが顔を上げると、タイタニアが不快極まりないといった表情で自分を見ている。緊張と恐怖の汗が床に落ちる。
「邪魔なのよ、あなた」
 衝撃波がエクレアに向かう。かまいたちのようなそれがぐんぐんとエクレアの目前に迫ってくる。カトルの側にしゃがんでいるので回避できない。後ろに腰を崩し、思わず顔を背けて腕
で顔を覆う。
「きゃあっ!?」
「…やらせるかっ!」
 カトルが立ちあがってクリスタルソードを振る。空気が歪んで周囲の床が裂けてタイルがめくれあがる。カトルも衝撃を受けきれず背後に崩れ、エクレアに体を預ける格好になって二人
とも壁まで吹き飛ばされる。カトルはすぐに立ちあがると剣を正面に構える。
「うふふ…それでこそ勇者様ですわ」
 うれしそうに笑いながら次々と衝撃を飛ばすタイタニア。それを受け止めながら、少しずつ、少しずつ前へ出ようとするカトル。二の腕が切れ、頬が裂け、血飛沫が後方へと流れてくる。
「カトル! 私に構うな!」
 エクレアがそう叫んでもカトルは動かない。やがてタイタニアが右手にこぶしを作って床に振り下ろす。一瞬の間。そしてカトル周辺の床が崩れ落ちる。
「ああっ!?」
 寄りかかっていた壁が後ろに崩れ、それと共にエクレアが宙に放り出される。今度こそ終わりか。しかし、エクレアの視界に伸びてくる腕。カトルが手を差し出している。
「カトルッ!?」
 しかし、次にエクレアの瞳に映ったものは、苦痛に歪む彼の顔。体がとこちらに落ちてくる。そして背中から吹き上がる血飛沫。エクレアの白い顔に、舞い上がった彼の血潮が降り注いだ。カトルは床を蹴って飛ぶとエクレアに抱きついた。共に落ちていく二人。カトルはエクレアの頭を抱きかかえるようにする。エクレアはただ、年下の少年にかばわれる自分の無力さを
呪うことしか出来なかった。
 
 少年が、呆然と立ち尽くしている。目の前で、ただ少女が泣いている。拗ねたような顔をして、少年は背を向けて歩き出す。河原に出ると、少年は手にした木刀で素振りを始めた。その瞳から、訳もなく涙が溢れる。
「強いのう、おぬしは…」
 少年がはっとして横を見る。そこに女性が立っていた。黒髪が脚の先まで長いことと、高い声色から女性だと思ったが、背丈は異様に高い。身は細いが、この村のどの男よりも背が高く思えた。真っ黒なドレス風の衣装。つばの広い、やはり真っ黒な帽子に一輪、赤い薔薇が刺さっている。腰には細い剣の鞘がかかっていた。
「しかし、おぬしは力を持て余している…使う術を知らぬ。時にそれは力の暴走を生む…少年よ、何故おぬしは力を求めるのだ」
「…何故も糞も無い。そうしなければ生きれないからだ。身寄りも何にも無いこの僕が生きるには、身を守るにも、飯を食うにも…剣がなければ生きられない。それが悪いのかよっ!?」
 涙を拭うと、そう叫んだ。女性はゆっくりとこちらを向いた。
「…少年よ、力は何のためにあるのであろうな?」
「は?」
 唐突な問いに少年はきょとんとする。女性はますます物憂げな顔で悠久と流れる川に視線を落とした。
「力の存在意義とは何であろうか…身を守るのも力。生きる術も力。あの少女を傷つけようとしたのも力ならば、それを助けたおぬしの持つものも、また力…。となれば、力が存在しなけ
ればそれも起こらなくなるのではないか?…しかし、現実として人は力を求める…そしてそれによって多くの者を傷つける。あの少女のように力を持たぬ多くのものは、ただその恐怖に
怯えることしか出来ぬ…それなのに少年よ、どうして力を求めるのだ?」
「力がなければ強くなればいい。だから僕はこうして剣を振るっているんだ…」
「…それは、おぬしの心が強いからだ。現状に満足せず、己を高めようとする…言うのは容易いが、多くの人間はそれが出来ぬ…心が弱いから、心がくじけてしまうから…そう、先程の
あの少女のように…」
 少年はハッとして、少女の泣いていた方を見る。しかし、唇を噛み締めて一言つぶやく。
「でも…いや、だからこそ、僕は強くならなくちゃいけないんだ…」
「…人を殺めることになったとしてもか?」
 女性は剣を抜いた。細く美しい剣だった。川の流れにそれを棹差す。
「私はもう、殺し疲れた。だから今はこうして、行く当てもなく旅をしている。しかし食い扶持がなくなれば…そう、おぬしの言う通り、力を使って金を得る。用心棒、賞金首…力なきもの
は、いくらでも力を欲する…しかし、その脅威がなくなれば、次に疎まれるのはその力だ。そして力は流浪する…多くのものを傷つけながら…おぬしも、そんな渦の中に身を投じるという
のか?」
「…力は悪だということか?」
「…究極的には、そうかも知れんのう…」
「なら、僕が全ての力を滅ぼす。それでいいでしょ?」
 その言葉に目を見開いて、少年を見る。哀しみを秘めた、力強いまなざし。少女を見つめた時と、同じ瞳だった。それに心引かれて、思わず声をかけたのだ。
「少年、それは大きな詭弁だ。…しかし理想であることには違わない。それを実現するには、多くの矛盾を孕む。そもそもにして、己がその憎むべき力を持たなければならぬ…」
「それでも構わない。僕が全ての傷を受ければいいのなら…それでも…」
 少年はきっぱりと言った。
「僕はもう、あの子を泣かしたくないんだ」
「おぬし…名はなんと言う?」
「カトル。カトル・ブレイディだ」
「そうか…私はスカーハ。おぬしの道に、力を貸そう…」

 ハッと目を開ける。自分を覗き込む顔。黒髪がさらさらと流れていた。
「…師匠?」
「大丈夫か、うなされていたが?」
 カトルは身を起こす。それを制して再び床につかせるエクレア。
「馬鹿。動くな。傷が開く」
「…ここはどこ?」
「詳しい位置は知らないが、ブラウンたちに助けられた。魔法でお前の出血も止まったが、傷口まで塞がったわけじゃないんだからな…」
 そういうとエクレアはカトルの側に横たわる。毛布を自分の肩に巻くと、カトルに抱きついて彼を自分の中に包み込んだ。
「…なにしてんの?」
「お前を温めているんじゃないか? 今だってまだ…」
 そういって手のひらを頬に押し付ける。じんわりと熱い。エクレアは手のひらでカトルの顔中を撫で回した。
「こんなに冷たいじゃないか。最初なんか氷のようでこっちもつらかったんだからな…」
 包帯越しにエクレアのぬくもりが暖かい。シルディとは別の、大人の匂いが鼻につく。
「あれから何日経ったの?」
「ちょうど三日目だ」
「そう…」
 ただ宙を見つめるカトル。天幕の具合からするとよく晴れているようだ。手足に血が流れていないのが恨めしい。
「…シルディに怒られるな…」
「私と床を同じにして心が痛むなら、最初から逃げ出すな…」
 カトルが横を見る。エクレアは顔を真っ赤にしてその顔を隠すようにカトルの肩にうずめていく。
「わ、私だって、男に裸身を晒したりして…もう嫁に行けぬ…」
「そうじゃなくて…戦わないでこんなところで寝ているからだよ。シルディを死なせないために置いてきたのに、魔王に傷をつけて倒れるならともかく、たどり着きさえもせずに…情けない
…」
「今は、休め…そうでなければ戦場に戻ることも出来ぬ…」
 カトルは左手を毛布から出す。こぶしを作り、指を伸ばす。その動きを繰り返していた。しばらく黙ってみていたエクレアだが、やがて腕を伸ばして肘をつかむと毛布の中に引っ込ませ
る。エクレアは腕ごと彼の体を抱き締める。
「シルディのところに、戻らなくていいの?」
「…私は、お前を監視するように言われてきた。が、私は王子の近衛兵だ。お前が死んだら王子が悲しむ。だから死なすわけにはいかない。それだけだ」
 カトルは体制がつらいので右手を広げる。別に意識したわけではないが、自然とエクレアの腰に手が回った。びくりと彼女が震える。
「ああ、御免。いつもの癖で…」
「ふん…」
 自分より4つも下の少年の台詞ではないと、エクレアは吹き出してしまう。腰から離れた手のひらが、ぺたぺたと毛布の中で動いている。
「…別に、構わん」
「いや、お嫁にいけなくなっても困るし…」
「元から行く気などない。私は王子に生涯を捧げている」
「ふぅん…」
 沈黙。カトルの体から力が抜けている。おとなしくしている気にはなったようだ。エクレアは抱きしめる腕にぎゅっと力を入れて、カトルの肩に顔を沈める。
「…抱いても…よいのだぞ」
「…は?」
「王子のために、死なせるわけにはいかない…けれど、王子のために、お前をアドレアに戻らせるわけにもいかない…。王子が…いや、姫を想う気持ちがもしあるのならば、それは捨て
てほしい。王子の前にも、もう二度と現れないでほしい。その代わり、私の体は好きにしろ。女が欲しければ私がいくらでも相手をする。女は捨てたけれど、不便なことに体は女のまま
だ。好きに…」
「エクレア」
 その声は怒気を含んでいた。エクレアが顔を上げると、カトルの視線は強く悲しく天を向いている。
「二度とそんなことを言っちゃいけないよ。シルディのために人生を捧げていたとしても、それは女を捨てることとは別のはずだよ」
「…それは男だから言えるのだ。男は平気で女を放っておく。私はそんな母の悲しみを見てきたから…現にカトルだって王子を置いてきた。理由はどうあれ、女は絶対にそんなこと許さない。それは忘れるな…」
 カトルは答えない。エクレアは身を寄せるようにしてささやいた。
「…カトル。ありがとう…」
「…それがまあ、仕事だから…」
「いや、助けてくれたのもそうだけど…」
「うん?」
「…いや、なんでもない。…いつか礼は尽くす…」
 自分にもまだ女の感情が残っていたのかと思うと、エクレアにそれがうれしいのか煩わしいのか、わからないままにカトルの肌を感じていた



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