「いいかげん、くたばっちまえよっ! おっさん!」
「失礼ですネ! 私のどこがおっさんなんデス!?」
互いに激しく言葉をかわしながら、シモンとブラッドが戦いを続けている。それはいいのだが、シモンの攻撃は専ら火系だし、ブラッドもその剣に炎をまとわせているというのは、戦場が
森の中である、ということを考えればかなり問題だ。互いが躱した、あるいは弾いた炎が周囲の樹に燃え移り、周囲は既に火の海と化している。
「あの馬鹿……!」
振りかかる火の粉から両腕で頭を庇いつつ、レディが憤然とした表情を浮かべる。カトルやエクレアはまだ鎧を身に付けているからいいようなものの、ごく軽装の彼女にはそろそろ熱気
がたまらなくなってきた。ならさっさとこの場を離れてしまえばよさそうなものだが、同行者二人がシモンとブラッドの戦いを注視しているためにそうもいかない。
「それにしても、『南の勇者』と呼ばれるだけの事はありますね。飛行しつつあれだけ高度な攻撃呪文を、しかも連続で操るなんて、クリフ様やソフィア様でも無理なんじゃないでしょうか」
素直に感嘆の表情を浮かべてエクレアがそう呟いた。その呟きに、思わずレディがぷっと吹き出す。
「あはは、違う、違う。あの馬鹿にそんな高度な技なんて使えっこないってば」
「え? でも、現に……」
怪訝そうな表情を浮かべてエクレアがレディの方に視線を向ける。実際、エクレアの言うようにシモンは自在に宙を飛びながら攻撃魔法を操っているように見えるのだが……。
「あいつは飛行術どころか一番初歩の風の術だって使えやしないわよ。というより、普通は得手不得手はあるにしても全系統使えるもんなんだけど、あいつの場合は火しか扱えないの
よね。
あいつが今やってるのは、自分のすぐ側でちっちゃな火球を連続で爆発させて、その爆風で浮かぶ……と言うか、自分をふっとばすって奴よ。ちなみに、攻撃に使ってるのもサイズは
違っても同じ火球だから、単にひたすら火球をばらまいてるだけって言う事も出来るわね。ほら、高度な技っていうよりは単純な力押しって感じがするでしょう? ま、あの単純馬鹿には
お似合いの技だとは思うけど」
「は、はぁ……」
何と答えていいのかわからずに曖昧な返事をエクレアが返す。レディは全然大した事ではないように言ってはいるが、実際にはとんでもないことなのではないだろうか。それとも、魔法
に関しては素人の自分だからそう感じるだけで、単に威力を上げるだけならば魔法を使うものには難しくもないのだろうか?
「力と技と、どちらかが上ということはないんじゃないかな。いや、むしろ、あれぐらい力にあふれているならば小手先の技などかえって邪魔になるだけだよ。彼の戦い方は正しいと思う」
じっと戦いを注視したまま、不意にカトルがそう言う。静かながらも妙に説得力のある言葉に、一瞬沈黙したもののレディが不機嫌そうに眉をしかめた。
「ま、それはそうかもしれないけど。でも、周りの人間にしてみればいい迷惑じゃない? 大きな力を持つものは、その力をきちんと制御する義務も持ってると私は思うけど」
「それは、っと!」
正面から飛んできた火球をカトルが剣で切り払う。爆風に髪をなびかせ、カトルが苦笑を浮かべる。
「確かにこれは、少し傍迷惑かな?」
「少し、じゃなくて、とってもでしょ!」
レディの言葉に被さるように、樹の倒れる音が連続して響く。エクレアが眉をしかめた。
「このままだと、勝負がつく前にこちらが焼け死にかねないか……?」
「確かに。気にはなるけど、そろそろ逃げないとまずいみたいだ」
エクレアの独白に頷くと、比較的火勢の弱い方へとカトルが剣を振るう。クリスタルソードによって増幅された『気』の塊が炎を切り払い、道を作った。
「あの、馬鹿……」
エクレアとカトルに少し遅れて駆けだしながら、レディがちらりと背後を振り返る。炎と黒煙によってほとんど遮られた視界の中で、二つの影が飽くことなき戦いを繰り広げていた……。
ぶん、と、低い音を立てて壁に掛けられた姿見が震える。口元に微笑をひらめかせつつ、『北の塔』の魔神、タイタニアがそちらへと視線を向けた。
同じ『魔神』ではあるが、キュベレとは違って彼女の姿やサイズは人間と変わらない。しかも、鮮血の色の唇、深い湖の蒼の瞳、透けるような雪の肌、足元まで伸びたつややかな黒
髪。どれをとっても、絶世のと形容したくなるような完璧な美女の姿だ。身にまとうは、緩やかなウェーブを描く純白の長衣。
けれど、彼女の姿を見たものが最初に感じるのは陶酔ではなく恐怖だろう。どこがどうとは形容できないものの、確かに彼女は明らかに人間とは異質な存在(もの)だった。
「珍しいわね、イェーガー。私は貴方には嫌われてると思ってたけど」
鏡に映る、宙に浮かんだ黒い毛の塊にしか見えないモノへと彼女がそう、呼びかける。ぐねぐねと無数の毛を絡み合わせつつ、『西の塔』の魔神イェーガーがタイタニアの脳裏へと思
考を伝えてきた。
(きゅべれがにんげんにたおされたというはなしはしっているな?)
「ええ、もちろん。どうせ、アレのことだから戦ってる最中に食い意地を張ったんでしょ。力はたいしたものだけど、頭の中身は獣並みだったからね」
軽く肩をすくめつつ、軽蔑を隠そうともせずにタイタニアがそう言う。元々、食欲ばかり旺盛なキュベレの事を馬鹿にしていた部分があったのに加え、人間ごときに倒されたという事で彼
女の中でのキュベレの評価はどん底に近くなっている。
そんな彼女の感情に気付いているのかいないのか、淡々とした調子でイェーガーが言葉を続ける。
(やつのみたまをさがそうと、こくうにさっきまでおりていたのだが)
「あら、優しいのね。それで? 新しい肉体を作る手伝いをしろっていうの?」
(いや、それが、だい3そうまでおりてもみつからなかったのだ)
「あらあらあら、情けないわね。人間に倒されたぐらいで、4層以下にまで落ちちゃったの? それじゃ、復活するのに最低でも五千年はかかるわね」
楽しげな笑いを浮かべながら、タイタニアがそう言う。
そもそも、神族と呼ばれる存在には厳密な意味での『死』は無い。御魂と呼ばれるその本質の部分は、例え肉体が破壊されたとしても決して滅びないからだ。ただ、現世に存在するた
めの拠り所である肉体を失った御魂は、虚空とも狭間とも、あるいは冥界とも呼ばれる虚無の世界に落ちてしまう。虚空は全部で5層になった多重空間で、魂の受けた損傷が激しけれ
ば激しいほど、その深い部分に落ちることになる。
第1層なら人間や動物、下級の魔族などでも復活は可能だが、第2層となると魔族の中でもかなりの実力者とみなされる者で無ければ復活は出来ない。そして、第3層が『現世に肉
体を保ったまま降りられる』最も深い場所で、神族、そして本当にごく一部の上級魔族だけがここから復活できる。また、ここまでならば、他の存在が『降りていって』拾いあげる事によ
り、ごく短気間での復活も可能である。
第4層、第5層ともなると、復活が可能なのは神族だけであり、しかもその復活には数千年単位の長い時間がかかる。ただ、この辺りまで落ちるほどの損傷は、神族の力をもってして
もなかなか与えられない。ここまで御魂を落とされてしまったのが、いわゆる、『神々の戦いに破れて封じられた神』などという存在だ。
ちなみに、ゲオルグの居城は、現在はこの虚空の第1層に存在している。本来は、四つの塔の魔神の力で強引に空間を安定させ、第2層に位置していたのだが、キュベレが倒された
事によりより浅い部分へと浮上した形だ。
(きみょうだとはおもわぬか? いかにゆだんしていたとはいえ、きゅべれもしんぞくのいちいんだ。それが、にんげんをあいてにそれほどのだめーじをうけるなど、まずありえぬはなしだ)
「まあ……ね。でも、至難ではあっても絶対にありえないというわけじゃないし、現実に起きてしまった事を否定してもしかたないんじゃない?」
(ぐうぜんとひつぜんは、つねにげんみつにくべつされるべきではないか?)
ぷうっと、毛玉が一回膨れてからすぼまるという動作をする。苦笑を浮かべながらタイタニアが肩をすくめる。
「どこまでが偶然でどこからが必然かは、神のみぞ知るって奴じゃないの?」
(われには、うらがあるようにおもえてならぬ。つぎににんげんどもがめざすのは、おまえのとうだ。せいぜい、きをつけるがよい)
ぐるんと身体を回転させつつ、イェーガーがそう言う。無数に絡み合った黒い毛の影に、ぬらりと光る巨大な瞳が一瞬見えた。
「御忠告、確かに承りましたわ。それで、話はおしまい?」
(ああ。くれぐれも、きをつけてな)
ぶぅん、と、再び姿見が低い音をたて、毛玉の映像が消える。軽く苦笑を浮かべるとタイタニアは姿身に背を向けた。
「ふぅん、キュベレを、ねぇ。楽しませてもらえるのかしらね、私も」
悠久の時を生きる彼女にとって、自らの敗北の可能性などというのは、たいした問題では無いのだろう。口元に優雅な笑みをひらめかせるとタイタニアは目の前の空間に幻影を生み出
した。
「私を、がっかりさせないでよね、勇者様」
赤毛の少年の幻影へと、艶然とした笑みを浮かべながら彼女はそう、呼びかけた。
「……血に依りて盟す、闇に依りて盟す。虚ろなる器、失われし光、姿を変え我が手に宿らん事を。我は求めたり、我は訴えたり。天の理、地の理、逆しに行いて逆しに生ぜんことを…
…」
闇の中に、陰々としたゲオルグの声が響く。魔王宮の最深部、ゲオルグのみが立ちいることを許された『闇の間』の中に膨大な力が渦を巻く。
彼の視線の先には、ほとんどまっぷたつになった魔神キュベレの姿がある。実体では無い。御魂と呼ばれるその本質の部分が、肉体を破壊された時の姿を映しているのだ。
それがここにあるのならば、イェーガーが捜してもみつからなかったのも、当然のことだ。落ちてきたキュベレの御魂を、ゲオルグが密かに回収していたのならば。だが、何のために?
ぐにゃり、と、不意にキュベレの姿が崩れた。熱せられた蝋のようにとろとろと床の上に流れ落ち、わだかまる。ゲオルグの咒が続くにつれ、液体状になったキュベレの御魂がふるふる
と震えながら別の姿へと形を変えていく。
「意思なき力よ、我が手に宿れ。我は汝に形を与えん。我が敵を裂く刃として、黄泉還えれ」
ゲオルグの咒が終わる。その頃には、元はキュベレの姿をしていたものは、一振りの剣へと姿を変えていた。ファルシオンに似た、湾曲した刀身をもつ片刃の剣だ。白い刀身には、赤
いラインが何本も走っている。
ゲオルグが右手を伸ばすと、その剣が自分から彼の手の中へと飛びこんできた。パリパリと雷光を放つその剣を、ごく無造作にゲオルグが振るう。刹那、すさまじい雷撃が闇を白く染
め上げた。
「ふむ、この程度か。予想よりは、多少威力が弱いな……。それだけ、受けた損傷が激しかったという事か。勇者カトル……侮れんな」
そう呟きながら、ゲオルグが自らの影へと剣を落とす。すっと影に飲みこまれて剣が姿を消した。
「だが、まあ、かまうまい。まだ三人、残っているわけだしな。その全ては手に入れられはしないだろうが、後一つ二つであれば何とかなるだろう。まぁ、それも、あの勇者たちが魔神を倒
せれば、の話だが」
ゲオルグの力は、他の魔族とは少し毛色が違う。他者の魂を取りこみ、自らの力へと変える事が出来るのだ。魂食らい、と、そう呼ばれる、珍しい属性を彼は持っている。
ソフィアもそうだが、こういう他者の力を取りこむタイプは、自分本来の力は実はたいした事がない。ただ、実質無限大に自分を強化していく事が可能であり、他者の力を利用するなど
して自分よりも強い力を持つものの魂を手に入れる事が出来れば、ごく簡単に強大な力を手に入れられる。
ゲオルグが今回狙っているのは、そのものずばり、神の力だ。階級は低いものの、それでもれっきとした神族である魔神たちに、ムースの力を濃く受け継いでいるシルディ。それらの
力をすべて手に入れる事が出来れば、自らを神に匹敵する強大な存在にする事すら不可能ではなくなるだろう。
「神は、盟約には縛られる。我が生け贄を捧げる限り、彼らは塔を守り、戦う義務がある。人間に過ぎぬとはいえ、勇者と呼ばれるだけの力を持つものたちだ。この世界では自らの力を
完全には振るえぬ魔神たちを倒す事は、難しくはあっても不可能ではない」
そう確認するように独白すると、ゲオルグは軽く目を閉じた。キュベレの力を取りこんだ今、魔神と互角に戦う事も既に不可能ではなくなっている。勇者たちとの戦いで傷ついた魔神な
らば、倒す事も充分に可能だ。最悪、次の魔神戦で勇者たちが全滅したとしても、キュベレを倒したほどの力を持つカトルや神剣を持つシルディの力は取りこめるわけで、傷ついた魔神
を倒す事は比較的容易だろう。そして、魔神二人分の力を取りこめば、自力で残る魔神をくだしていく事も出来なくはない。
「面倒だから、出来れば勇者たちの活躍に期待したいところではあるが、な……」
そう呟くと、ゲオルグは闇の間を後にした。その時が来るまでは、勇者たちに手は出すべきではない。打倒勇者に燃える配下のものたちを、暴発させない様に注意をしておくべきだろ
う。
胸の奥に燃える野望を、かけらも感じさせない無表情でゲオルグは玉座に付く。自らの望みを叶えるその時を、じっと待ちながら。
「あらあら、シルディ様はお一人で?」
あまり緊張感のない声が背後から掛けられる。慌てて振り返ったクリフはそこに姉の姿を認めて肩から力を抜いた。
「どこに行っていたんです? 姉さん」
「物事は、そうそう思い通りには運んではくれないということを実感しに、かしらね」
「は?」
「少し予定を変えるわ、クリフ。あなたはとりあえず、ジェイド将軍と一緒に軍をまとめて。まとまり次第、シルディ様を追いかけるから」
意外と、というと失礼かもしれないが、ミルキー軍の動きは統率が取れている。今はまだ多少の混乱を残してはいるものの、彼らが完全に撤退するまでにそうは時間はいらないだろ
う。軽く溜息をつきつつそう状況を見て取るとソフィアはクリフへと視線を戻した。
「どうしたの? 聞こえなかった?」
「い、いえ、しかし、姉さん。予定を変える、とは?」
「本当は、他の勇者たちに先行してもらいたかったんだけど……少なくとも、勇者ブラウンよりは先に行く必要が出来たみたいだから、ね。彼は危険だわ」
「危険?」
「黒薔薇会の七色聖。何が目的なのかは知らないけど……力で対抗するには分の悪い相手だわ。単に名声が目的とも思えないけれど、ね」
カトルは、問題ない。彼が求めているのは、強敵と戦うことであり、魔王を倒した後に得られる名声だの財宝だのには何の興味も示さないだろうから。魔王を倒したという手柄を、アドレ
アが横取りしたところで何とも思わないだろう。むしろ、わずらわしさを避けるために積極的に協力してくれるかもしれない。
シモンは、求めているのが名声と財宝だから、手柄を横取りされそうになれば反発するだろう。だが、性格も魔力も単純な彼を罠にはめ、始末することはそう難しくはない。正面から戦
うのは危険でも、絡め手から攻めればいくらでも手のうちようはある。
ブラウンも、カトルと同じく、名声や財宝には興味がないものだと思っていた。おそらくは、魔王の持つ魔法技術か何かに興味があり、それを手に入れるのが目的だろう、と、そう考えて
いたのだ。もちろん今でもその考えは捨てきれてはいないが、裏に黒薔薇会が居るとなると話は少し変わってくる。
「黒薔薇会……確か、北方の魔術士の互助団体、でしたか?」
「そう。元々、あの辺りは迷信深いから。随分と前の話だけど、魔術を使うだけで魔族の手先呼ばわりされ、処刑されることすらあったらしいわ。そういう背景を元に、魔術士たちが身を守
るために結成した組合みたいなものだったのね、最初は。
でも、長い時の流れの中で、次第に組織が変質するのはある意味では必然。今の黒薔薇会はほとんど秘密結社みたいなものよ。何を考えているのか、外からでは図り知れないわ」
クリフとの問いに、すらすらとそう答えるとふぅと軽くソフィアは溜息をついた。
「魔王を倒した、というのは、格好の宣伝材料になるでしょうね。魔術士は、魔族と戦うためには必要な存在だとアピールできれば、北方での魔術士の地位は格段に向上するんじゃない
かしら。もっとも、彼らの目的がそれほど単純かどうかは分からないけど、かといって手柄を黙って横取りはされてくれないでしょうからね。彼らに先を越されるわけにはいかないのよ。
大切なのは、魔王を倒したという名声を得るのは、アドレアの神剣使いでなければならない、ということ。長期的に見れば、出現するかどうか分からない『勇者』に人間の世界を守る役
目を期待するわけにはいかないもの。アドレアがなんとかしてくれるに違いない、心配することはない、と誰もが思っていなければ、圧倒的な力を持つ魔族の脅威の前に人の心なんてた
やすく崩れてしまうのだから。例えそれが虚名に過ぎないとしても、ね」
「姉さん……?」
「……おしゃべりが、すぎたわね。クリフ、シルディ様の居場所は、把握しているんでしょう?」
「え、ええ、それは。とっさに風霊を飛ばしましたから、それは問題ないですけど」
「なら、急いで軍をまとめて。恋は盲目、と、よく言うけれど、今のシルディ様はあまり周囲が見えていらっしゃらないようだから。少しでも冷静に考えれば、どこに居るか分からないカトル
様を闇雲に追いかけるよりも、居場所を把握している私なりあなたなりに確認を取る方が早い、なんてこと、すぐに分かりそうなものなんだけど」
そういって軽く左右に頭を振ると、ソフィアはもう一度溜息をついた。
(今の戦力で、魔王と正面からぶつかるのは、どう考えても得策ではないのだけれど……。レディさん、だったかしら? 彼女が、勇者シモンに対する人質になってくれれば少しは楽かし
らね?)
そうやって、人を陥れることばかり考えてしまう自分が嫌になることがないといえば嘘になる。けれど、今はそれが必要とされているのだ。
ハッと目を開ける。自分を覗き込む顔。黒髪がさらさらと流れていた。
「…師匠?」
「大丈夫か、うなされていたが?」
カトルは身を起こす。それを制して再び床につかせるエクレア。
「馬鹿。動くな。傷が開く」
「…ここはどこ?」
「詳しい位置は知らないが、ブラウンたちに助けられた。魔法でお前の出血も止まったが、傷口まで塞がったわけじゃないんだからな…」
そういうとエクレアはカトルの側に横たわる。毛布を自分の肩に巻くと、カトルに抱きついて彼を自分の中に包み込んだ。
「…なにしてんの?」
「お前を温めているんじゃないか? 今だってまだ…」
そういって手のひらを頬に押し付ける。じんわりと熱い。エクレアは手のひらでカトルの顔中を撫で回した。
「こんなに冷たいじゃないか。最初なんか氷のようでこっちもつらかったんだからな…」
包帯越しにエクレアのぬくもりが暖かい。シルディとは別の、大人の匂いが鼻につく。
「あれから何日経ったの?」
「ちょうど三日目だ」
「そう…」
ただ宙を見つめるカトル。天幕の具合からするとよく晴れているようだ。手足に血が流れていないのが恨めしい。
「…シルディに怒られるな…」
「私と床を同じにして心が痛むなら、最初から逃げ出すな…」
カトルが横を見る。エクレアは顔を真っ赤にしてその顔を隠すようにカトルの肩にうずめていく。
「わ、私だって、男に裸身を晒したりして…もう嫁に行けぬ…」
「そうじゃなくて…戦わないでこんなところで寝ているからだよ。シルディを死なせないために置いてきたのに、魔王に傷をつけて倒れるならともかく、たどり着きさえもせずに…情けない
…」
「今は、休め…そうでなければ戦場に戻ることも出来ぬ…」
カトルは左手を毛布から出す。こぶしを作り、指を伸ばす。その動きを繰り返していた。しばらく黙ってみていたエクレアだが、やがて腕を伸ばして肘をつかむと毛布の中に引っ込ませ
る。エクレアは腕ごと彼の体を抱き締める。
「シルディのところに、戻らなくていいの?」
「…私は、お前を監視するように言われてきた。が、私は王子の近衛兵だ。お前が死んだら王子が悲しむ。だから死なすわけにはいかない。それだけだ」
カトルは体制がつらいので右手を広げる。別に意識したわけではないが、自然とエクレアの腰に手が回った。びくりと彼女が震える。
「ああ、御免。いつもの癖で…」
「ふん…」
自分より4つも下の少年の台詞ではないと、エクレアは吹き出してしまう。腰から離れた手のひらが、ぺたぺたと毛布の中で動いている。
「…別に、構わん」
「いや、お嫁にいけなくなっても困るし…」
「元から行く気などない。私は王子に生涯を捧げている」
「ふぅん…」
沈黙。カトルの体から力が抜けている。おとなしくしている気にはなったようだ。エクレアは抱きしめる腕にぎゅっと力を入れて、カトルの肩に顔を沈める。
「…抱いても…よいのだぞ」
「…は?」
「王子のために、死なせるわけにはいかない…けれど、王子のために、お前をアドレアに戻らせるわけにもいかない…。王子が…いや、姫を想う気持ちがもしあるのならば、それは捨て
てほしい。王子の前にも、もう二度と現れないでほしい。その代わり、私の体は好きにしろ。女が欲しければ私がいくらでも相手をする。女は捨てたけれど、不便なことに体は女のまま
だ。好きに…」
「エクレア」
その声は怒気を含んでいた。エクレアが顔を上げると、カトルの視線は強く悲しく天を向いている。
「二度とそんなことを言っちゃいけないよ。シルディのために人生を捧げていたとしても、それは女を捨てることとは別のはずだよ」
「…それは男だから言えるのだ。男は平気で女を放っておく。私はそんな母の悲しみを見てきたから…現にカトルだって王子を置いてきた。理由はどうあれ、女は絶対にそんなこと許さない。それは忘れるな…」
カトルは答えない。エクレアは身を寄せるようにしてささやいた。
「…カトル。ありがとう…」
「…それがまあ、仕事だから…」
「いや、助けてくれたのもそうだけど…」
「うん?」
「…いや、なんでもない。…いつか礼は尽くす…」
自分にもまだ女の感情が残っていたのかと思うと、エクレアにそれがうれしいのか煩わしいのか、わからないままにカトルの肌を感じていた